海は変わらねど
川(水戸辺川)は変わった。
近くの湿地にシラサギの群れ。
2013年6月 水戸辺川上流にて。
「平成」最大の災害である「東日本大震災」は、福島原発をはじめとして「令和」に続くであろう。
石巻市北上町の釣石神社では、被災した本吉法印神楽の面27面の復元がが完成し、28日お披露目となったことは喜ばしい。
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沿岸部の現状(南三陸町)
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お勧め本
専門的な本であるが板碑こと石の仏塔研究の最前線。
お知らせ(付記2019.5.1「令和元年」)
東北学院大学中世史研究会の会誌『六軒丁中世史研究』が四年ぶりに再開され17号が刊行されました。
東日本大震災後、三陸南部の中世を考古学的に探った最初の拙文が掲載されております。よかったらご覧ください。問い合わせ先は下記ですが、5月中旬以降には事務局対応が可能かと思われます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。改めて2011.3.11東日本大震災で失われた二万人の命の重さを肝に銘じるとともに、南三陸に生きた人々の証である豊かな南三陸の自然・歴史文化遺産を活かした復興まちづくりに寄与することを目指します。拙著『南三陸の山城と石塔』で紹介した約600年前の妙樹禅尼造立「石塔」について
拙著の表紙の背景になった銘文はこの「石塔」です。2013年、志津川の惨状の中で地元の方に教えていただき、その豊かな願文に感銘を受けました。南三陸町志津川下保呂毛に所在する朝日館跡は、志津川城とも呼ばれる南三陸の代表的な山城跡(標高75m)で、石塔はその最下段にあります(畑に隣接しているので見学の方は、畑を踏まないようにしてください)。
朝日館跡は江戸時代の『仙台領古城書上』では「朝日城」と記され、城主は千葉大膳太夫季次とされています。発掘調査は実施されていませんが時期は概ね南北朝期から戦国期と考えられ、戦国期は葛西氏の独立性の強い重臣である本吉氏の居館とされています。東日本大地震の津波は一帯にも甚大な被害を与え、対面にある大雄寺の江戸時代からの杉並木(町指定)も壊滅しましたが、館跡の東側最下段の平場(標高約27m)と民家と近くに立つこの石塔(板碑)は無事でした。ここは当時、志津川湾の入り江に近く、南北朝時代から領主の屋敷があったと考えられます。
(妙樹禅尼造立「石塔」3Dカラー画像 田中則和作成)
この石塔(板碑)は、地上高90cmとさほど大きくなくひっそりと山裾に立っています。半ば土に埋もれていますが、小さな碑面にぎっしりと梵字(古代インドサンスクリット文字)で仏のシンボルである種子と地獄に落ちない聖なる言葉である光明真言、紀年、長文の願文が刻まれています。紀年銘は至徳二年(1385)八月十九日であり、南北朝時代の後半、室町幕府三代将軍足利義満のころです。このころの南三陸の様子を示す記録は残されていませんが、この石塔から妙樹禅尼という女性が「五障」という悟りを得られない障害を克服したいという自らの現世と来世の願いを込めて造立したことが明記されています。仏門に入り戒律(「菩薩戒」)を受けた一人の尼が、現代風に言えば「生前葬」の法要(銘文には石塔造立を含めて「逆修」と表現されています)を経て、その結願として「石塔」造立による祈願を豊かな願文で表しており、しかも、後で述べるように極めて禅宗僧の指導により造立されたと考えられる東北地方では極めて貴重な板碑です。
石材は石巻産の井内石に近似していますが、あるいは近辺に類似した岩脈がある可能性があります。上部に大きく刻まれた種子イの表す仏は、地蔵菩薩もしくは伊舎那天ですが、ここでは妙樹禅尼が自らの願いを込めて造立した経緯なども考え併せ「延命地蔵」ではないかと考えています。
線で隠された次の段の光明真言の一行目はオンアボギャベイロ、二行目はシャナウマカボダラ、三行目はマニハンドマジンバラ、四行目はハラバリタヤウーンタですが、字形には南三陸ならではの個性がみられます。 線で区画された最下段に刻まれる願文は「菩薩戒弟子妙樹禅尼 涓取至徳二年八月十九日逆修善根造立一基石塔 以荘厳二世報地 伏願変五障身即到无垢受一生記頓証菩提」です。銘文の文字配列は紀年銘も含めて一つの文章として構成されている点が特徴的です。
書き下しは「菩薩戒の弟子妙樹禅尼、至徳二年八月十九日を涓取(けんしゅ)して善根を逆修す。一基の石塔を造立し、以て二世の報地を荘厳す。伏して願わくは、五障の身を変じ、即ち無垢に至り、一生の記を受け、頓(すみや)かに菩提を証せんことを。」としてみました。現代の歴史家が「板碑」と呼んでいるものを「石塔」と呼んでいたこともわかります。「石塔」は他の例からみて「石塔婆」、「石率都婆」の略で、もともとはお釈迦様の遺骨を納めた塔である「ストゥーパ」に由来しています。
http://www.senpan.co.jp/shop/product.php?id=323
詳しく知りたい方のために
この願文の中で「涓取」、「荘厳二世報地」、「无垢」(無垢)、「一生之記」の言葉は板碑としては希少な例です。ただし、「報地を荘厳」は、現在でも、禅宗の回向例文に頻出している言葉です。『諸回向清規』(永禄六年(1566)成立。明暦三年(一六五七)刊行)を基とした『江湖叢書 諸回向清規式(抄)』(禅文化研究所)は「現在の臨済宗の法式の典拠」ですが、「報地を荘厳」のフレーズ例を多数掲載するとともに、その註として「善因を修した果報により、自然に感得する仏土を厳浄するとともに、そのような仏土に到達するように願うこと。」と説明しています。本板碑例では「二世の報地を荘厳す」とあるので現世、来世ともにその境地を祈願していると思います。したがって「生前に仏事(葬儀)を行い、石塔を造立するという果報により感得する現世の仏土を荘厳し、併せて来世に往くべき仏土を荘厳する」ということになりましょうか。
「受一生記」については、「受記」すなわち、「仏から修行者が未来に成仏するという予言を得ること」です。曹洞宗の太祖とされる第四祖の瑩山紹瑾(1268年- 1325年)が建立した永光寺などで使うために著された修行僧の規則である『瑩山清規』(永和二年1376年書写版が最古)に注目すべき用語があります。「亡者回向」の「在家平人回向」には、「(前略)奉為某甲 資助幽霊、荘厳報地。伏願身超浄域、業謝塵労、蓮開上品之華、仏授一生之記」とあります。妙樹造立板碑の場合は「受一生之記」とあり、受け手の立場で表現しています。なお、この「仏授一生之記」などのフレーズは、手本となった中国成立の『禅苑清規』(崇寧二年(1103)序刊)の「(前略) 伏願神超浄域業塵労、蓮開上品之花仏授一生之記」を継承している可能性があります。
妙樹禅尼の逆修石塔造立を指導したのは、禅宗、中でも臨済宗僧の可能性が高いと考えています。禅宗の逆修石塔造立供養の有力者女性への普及という視点からみれば、建武五年(1338)、臨済宗松島円福寺において、藤原氏女が逆修「石塔婆」を造立して、「五障雲散して菩提を得る」ことを願った作善思想の流れが、至徳元年(1385)に至って、志津川の領主一族かと思われる女性の同様の作善につながったともいいうるのではないだろうか。そして妙樹禅尼の石塔造立は、関東地方の「禅尼による光明真言逆修」石塔造立の盛行とシンクロした石巻地方の天台浄土教の本尊種子を刻んだ同様の板碑造立の流れにおいて、そのことを踏襲した臨済宗勢力が松島・石巻・追波・志津川湾岸域の教線の中で、在地領主一族の女性を対象とした授戒を含めた独自の活動の結果ではなかったかと考えています。
(詳しくは筆者の田中則和が2015年に投稿した「妙樹禅尼の逆修「石塔」造立─南北朝期南三陸の時空(序論)」が2019年春には東北学院大学より刊行されると思いますのでご覧ください。ただし最新の見解ではありません。)
南三陸町での連続講座案内(南三陸研究会・うみさと暮らしのラボ)
貞和五(1349)年「一結徒衆」板碑
宮城県松島町雄島に立つ高さ2.4mの南北朝時代の石塔(板碑 図は合成写真)。
全身コケだらけのため、気に留める人はほとんどいない。
こちらは同じものを、色を除去した写真。釈迦如来のシンボル(梵字)が鮮やかに見える。
そして 実は願いの文がぎっちりと刻んであります。
(画像処理写真)
簡単にいいますと
「お釈迦様の仏舎利である「金剛舎利」(お骨)の法会を毎日行い、浄土に行くことと、それぞれの家の繁栄を願ったあります。」
「金剛舎利」とは、現在も瑞巌寺(当時は円福寺)で所蔵する水晶製五輪塔に納められている「舎利」と考えられています。
その下に
(合成ゆがみ修正写真)
お坊さんと法会参加者の名前がびっちりと刻んであります。
その数、なんと145人(『松島町史 資料編1)
「安藤太郎妻 尼妙善 真光妻 阿弥陀仏 孫六妻....」と女の人の名前が多いのです。
これらの人々は安藤氏など牡鹿半島の海の武士団、 だけでなく海の民と考えられています。
(『松島町史 資料編1)
すごいでしょ!
実は、背面にも、江戸時代の人が刻んだ文字が全面に刻まれています。
では、本年はご愛読していただき誠に有難うございました。
よいお年をお迎えください。
南三陸町新井田地区の津波で流出した家屋の基礎と新井田館跡(2013年11月23日)
調査現地説明会の様子(公開については南三陸町教育委員会の許可を得ています)
南三陸町新井田館の発掘について
南三陸町の山城跡、新井田館跡(にいだたてあと)は2011年11月3月11日に発生した東日本大震災津波からの復興事業の一つである中央団地造成に伴い大規模な発掘調査が実施された。その結果は、それまでほとんど知られなかった南三陸の戦乱の室町時代を物語る重要な成果となった。調査成果は緻密な報告書にまとめられたが、その性格上、一般の方には難しいものであり、もっとわかりやすく語りたい。筆者が、このたび『南三陸の山城と石塔─東日本大震災後の調査でわかったこと』(河北新報出版センター 864円)を書いた目的の一つである。しかし、拙著はモノクロ主体の小さな本でありビジュアルの面ではわかりにくい。そこで、動画でお届けすることを考えた。まずは、以前、南三陸町教育委員会の許可を得て公開した現地説明会のビデオを再編集してお届けする(編集技術は超初心者でありお許し願いたい)。
新井田館の時代は15世紀、室町時代。金閣寺を建てた三代将軍足利義満から四代の義持に移っていく時代で、応永七(一四〇〇)年には奥州探題として斯波氏(後の大崎氏)が任じられ、現在の大崎市付近に赴任してきたとされる時代である。しかし宮城県の沿岸部の様相は記録がなくほとんど不明で、山城全体をまるごと発掘調査した例は宮城県では極めて少ない。その結果、室町時代の志津川では、領主が、山上に立てこもらざるを得ない、軍事的緊張の状況であったことがわかった。そして、志津川湾沿岸の航路・街道を見通し、内陸から街道の出入り口を抑える重要な位置に、東アジアの品々を入手しうる有力な武士一族が存在したことが明らかとなったのである。
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新井田館跡(志津川新井田)
想像的復元説明図(『新井田館跡』(南三陸町教育委員会 2016)を下図に作成
田中則和 2018)
(竪堀風の麓への通路)
(上の写真を別角度から見たところ。切岸、段の調査風景)
東日本大震災後の復興関連調査で2013年に新井田館跡はまるごと発掘され、消滅した。(現在の中央団地)
その結果、大規模な土塁と空堀、切岸で防御された室町時代の居館型山城であることがわかった。
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グーグルアースで見る2014年3月の様子
朝日館跡(志津川下保呂毛)
現存する南三陸最大の山城、朝日館跡(2016年 ドローン撮影 佐藤泰・針生芳知)
縄張り調査の結果、広大な居住地を擁する中世の居館型山城であることがわかった。
(田中則和 2016)。
中枢部の地表顕在遺構の解釈
グーグルアースで見る2011年4月の様子
城館の位置関係(グーグルアース 2016)
グーグルアースで見る南三陸の主な城館
(朝日館跡付近 2018.10)
現在、南三陸町は復興工事の真っ盛り、道もどんどん変わっています。お気を付けください。
詳しくは拙著をご覧いただけると幸いです。