南三陸町で行っていた連続講座「南三陸の中世」(全8回)は昨日無事終了いたしました。最後に入谷ouiパン工房の特製の梵字アを入れたパンをいただき、感激いたしました。もっちりとした美味のパンでした。連続講座を支えていただいた関係者の皆様、夜にもかかわらず聴いていただいた皆様に深く感謝いたします。
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南三陸の中世8「南三陸の歴史文化遺産」(予告)
「建仁元年(1201、鎌倉)奥州信夫荘司佐藤基治の妻乙羽姫(後尼公とも云う。平泉藤原秀衡の妹)の子佐藤次信、忠信の兄弟屋島・吉野の戦に主君源義経の身代りとなって忠死せるにより祈誓するところあり、已が湯沐の地たる山田・津谷両邑の境に吉野蔵王権現(金峯神社)吉野水分神社を勧請して御嶽と云い、後御嶽蔵王権現と称した。」(社伝)
2012年に気仙沼市本吉町の小泉湾岸を訪れました。
上の写真は東日本大震災の大津波で野と化した浄福寺の麓一帯の光景です。
浄福寺は平泉の藤原清衡の子、亘理十郎清綱の娘、乙和姫(福島市飯坂の大鳥城主佐藤元治夫人)が平泉滅亡後に尼となり、
ここに眠っていると伝えられるお寺です。現在もその五輪塔が大事にされております。
そして、ここから北方約1.5kmにある浄勝寺(津谷)には、乙和姫の子とされる佐藤継信・忠信兄弟の墓塔と伝えられる大きな五輪塔があります。
佐藤継信・忠信兄弟はあの有名な源義経の家来です。
写真の右下が、刻まれた梵字が見えるように色を抜いて3D化した五輪塔の写真です(九州文化財計測支援集団CMAQ作成 )。
一帯も大津波が侵入し、大きな被害がありました。小泉湾岸は復興工事中で大きく景観が変わっています。
この小泉湾から平泉への山道には多くの遺跡があり、平泉の時代以来のその重要性を物語っています。
前半はこのようなお話を主にするつもりです。今回は最終回ですので、後半は
「地域の歴史文化遺産の保護と活用」というテーマでまとめたいと思っております。
会場は生涯学習センターです。
よかったら、お越しください。
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講座「南三陸の中世5 志津川湾を板碑・山城から探る」(予告)
南三陸町で開催しております連続講座「南三陸の中世」(8回 主催:南三陸研究会、うみさと暮らしのラボ )は、いよいよ、2013年の新井田館跡(現在の中央団地)発掘を契機とした南三陸の中世の歴史探求の出発点である「志津川」に入ります。
今回は、拙著『南三陸の山城と石塔』刊行以後の成果を盛り込み、埋もれていた先人たちが知恵と工夫をこらした痕跡、石塔や山城跡などの歴史文化遺産から千年前の平安時代から戦国時代の志津川湾域の歴史を探ります。
「復興まちづくり」の一助にこれらの歴史遺産が役立つことを願っております。志津川湾というと「海」にばかり目が行きがちですが、山城の分布と内容から、戦国の時代の武士たちが、必死で守ろうとしたものが何かを探ります。そして、鎌倉・南北朝時代の記録は南三陸町にはありませんが、約350基もの板碑が、武士一族などの有力者の存在と活動を示しています。現在ではほとんど見えなくなった文字や加工の特徴を3Dなどの最新技法で探ります。
※現在の会場は生涯学習センターです。
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「宮城県本吉郡南三陸町志津川(しづがわ)が本章の舞台。2013年、大森というところにいて東日本大震災の津波で鳥居を失った荒島の神社に参拝。
早朝の朝日に輝く海でウニ漁をしている風景にまぶしさと「復興」への意気込みを感じる。
そして、この地を歩いていると、案内していただいた年配の方は志津川の郷土史家佐藤正助先生のお名前に懐かしく反応する。
それほど志津川を愛して歩き回った先生のデビュー作は美しい志津川湾の内湾の古称を題名とした『旭ヶ浦物語』(1975年)。
きっかけは震災復興に伴い全国の支援を受けて全速力で発掘した新井田館跡の発掘。現在は中央団地となっている。その発掘成果と埋もれた山城の跡と石塔を結び付けて志津川の歴史を明らかにすれば、新しい「まちづくり」にも寄与できるはずだとの思いである。」「志津川という地名の由来は、「古館朝日城」の下に清水が涌き出るところがあることにちなんでつけられた「清水川」にあると伝えられていることが安永三(1774)年に仙台藩が各村々に書き出させた『志津川村御用書出』に記されている。
朝日(旭)館は志津川城とも呼ばれ、その跡は、下保呂毛にある。「ほろけ」というのはアイヌ語由来説もある名前だが、地元の方は「ほろっけ」とさらにリズミカルに呼ぶ。志津川の名刹(めいさつ)大雄寺(だいおうじ)付近から見るその「朝日館跡」)は、一見、二つの小山にしか見えない。江戸時代の諸記録には奥州「平泉藤原秀衡の四男、本吉四郎冠者の居館」と伝えられること、その後、葛西宗家の流れである本吉氏の居館となったと紹介されている。朝日館が藤原高衡の居館というのは伝説だが、12世紀の末期に藤原高衡が本吉荘管理のトップであったことは確かである。郷土史家、紫桃正隆氏が「当地方随一、究めるほどに新しい驚きが次々と出現する」と称賛した山城跡を探ってみよう。」
(以上、田中則和『南三陸の山城と石塔』2018より)www.google.co.jp
皆様のお越しをお待ちしております。
軌跡
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キラキラうに丼の季節です!
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釣石神社─被災神楽面復活の舞(石巻市北上町)
「平成」最大の災害である「東日本大震災」は、福島原発をはじめとして「令和」に続くであろう。
石巻市北上町の釣石神社では、被災した本吉法印神楽の面27面の復元がが完成し、28日お披露目となったことは喜ばしい。
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沿岸部の現状(南三陸町)
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お勧め本
専門的な本であるが板碑こと石の仏塔研究の最前線。
- 作者: 時枝務,磯野治司
- 出版社/メーカー: 雄山閣
- 発売日: 2019/04/26
- メディア: 単行本
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小生が製作した松島雄島の「金剛舎利」板碑や拙文も掲載されております。
見事な釈迦如来のマーク「バク」は南北朝時代の仏教のレベルと石工の技術を示しています。
実は金剛舎利法会の由来と145名の参加者の名前が刻まれている高さ2.8mの巨碑。
- 作者: 田中則和
- 出版社/メーカー: 河北新報社
- 発売日: 2018/10/30
- メディア: 単行本
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お知らせ(付記2019.5.1「令和元年」)
東北学院大学中世史研究会の会誌『六軒丁中世史研究』が四年ぶりに再開され17号が刊行されました。
東日本大震災後、三陸南部の中世を考古学的に探った最初の拙文が掲載されております。よかったらご覧ください。問い合わせ先は下記ですが、5月中旬以降には事務局対応が可能かと思われます。
震災八年、復興未だ成らず─牡鹿半島
南北朝時代の一女性の願いを込めた「石塔」─南三陸町朝日館跡
本年もどうぞよろしくお願いいたします。改めて2011.3.11東日本大震災で失われた二万人の命の重さを肝に銘じるとともに、南三陸に生きた人々の証である豊かな南三陸の自然・歴史文化遺産を活かした復興まちづくりに寄与することを目指します。拙著『南三陸の山城と石塔』で紹介した約600年前の妙樹禅尼造立「石塔」について
拙著の表紙の背景になった銘文はこの「石塔」です。2013年、志津川の惨状の中で地元の方に教えていただき、その豊かな願文に感銘を受けました。南三陸町志津川下保呂毛に所在する朝日館跡は、志津川城とも呼ばれる南三陸の代表的な山城跡(標高75m)で、石塔はその最下段にあります(畑に隣接しているので見学の方は、畑を踏まないようにしてください)。
朝日館跡は江戸時代の『仙台領古城書上』では「朝日城」と記され、城主は千葉大膳太夫季次とされています。発掘調査は実施されていませんが時期は概ね南北朝期から戦国期と考えられ、戦国期は葛西氏の独立性の強い重臣である本吉氏の居館とされています。東日本大地震の津波は一帯にも甚大な被害を与え、対面にある大雄寺の江戸時代からの杉並木(町指定)も壊滅しましたが、館跡の東側最下段の平場(標高約27m)と民家と近くに立つこの石塔(板碑)は無事でした。ここは当時、志津川湾の入り江に近く、南北朝時代から領主の屋敷があったと考えられます。
(妙樹禅尼造立「石塔」3Dカラー画像 田中則和作成)
この石塔(板碑)は、地上高90cmとさほど大きくなくひっそりと山裾に立っています。半ば土に埋もれていますが、小さな碑面にぎっしりと梵字(古代インドサンスクリット文字)で仏のシンボルである種子と地獄に落ちない聖なる言葉である光明真言、紀年、長文の願文が刻まれています。紀年銘は至徳二年(1385)八月十九日であり、南北朝時代の後半、室町幕府三代将軍足利義満のころです。このころの南三陸の様子を示す記録は残されていませんが、この石塔から妙樹禅尼という女性が「五障」という悟りを得られない障害を克服したいという自らの現世と来世の願いを込めて造立したことが明記されています。仏門に入り戒律(「菩薩戒」)を受けた一人の尼が、現代風に言えば「生前葬」の法要(銘文には石塔造立を含めて「逆修」と表現されています)を経て、その結願として「石塔」造立による祈願を豊かな願文で表しており、しかも、後で述べるように極めて禅宗僧の指導により造立されたと考えられる東北地方では極めて貴重な板碑です。
石材は石巻産の井内石に近似していますが、あるいは近辺に類似した岩脈がある可能性があります。上部に大きく刻まれた種子イの表す仏は、地蔵菩薩もしくは伊舎那天ですが、ここでは妙樹禅尼が自らの願いを込めて造立した経緯なども考え併せ「延命地蔵」ではないかと考えています。
線で隠された次の段の光明真言の一行目はオンアボギャベイロ、二行目はシャナウマカボダラ、三行目はマニハンドマジンバラ、四行目はハラバリタヤウーンタですが、字形には南三陸ならではの個性がみられます。 線で区画された最下段に刻まれる願文は「菩薩戒弟子妙樹禅尼 涓取至徳二年八月十九日逆修善根造立一基石塔 以荘厳二世報地 伏願変五障身即到无垢受一生記頓証菩提」です。銘文の文字配列は紀年銘も含めて一つの文章として構成されている点が特徴的です。
書き下しは「菩薩戒の弟子妙樹禅尼、至徳二年八月十九日を涓取(けんしゅ)して善根を逆修す。一基の石塔を造立し、以て二世の報地を荘厳す。伏して願わくは、五障の身を変じ、即ち無垢に至り、一生の記を受け、頓(すみや)かに菩提を証せんことを。」としてみました。現代の歴史家が「板碑」と呼んでいるものを「石塔」と呼んでいたこともわかります。「石塔」は他の例からみて「石塔婆」、「石率都婆」の略で、もともとはお釈迦様の遺骨を納めた塔である「ストゥーパ」に由来しています。
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詳しく知りたい方のために
この願文の中で「涓取」、「荘厳二世報地」、「无垢」(無垢)、「一生之記」の言葉は板碑としては希少な例です。ただし、「報地を荘厳」は、現在でも、禅宗の回向例文に頻出している言葉です。『諸回向清規』(永禄六年(1566)成立。明暦三年(一六五七)刊行)を基とした『江湖叢書 諸回向清規式(抄)』(禅文化研究所)は「現在の臨済宗の法式の典拠」ですが、「報地を荘厳」のフレーズ例を多数掲載するとともに、その註として「善因を修した果報により、自然に感得する仏土を厳浄するとともに、そのような仏土に到達するように願うこと。」と説明しています。本板碑例では「二世の報地を荘厳す」とあるので現世、来世ともにその境地を祈願していると思います。したがって「生前に仏事(葬儀)を行い、石塔を造立するという果報により感得する現世の仏土を荘厳し、併せて来世に往くべき仏土を荘厳する」ということになりましょうか。
「受一生記」については、「受記」すなわち、「仏から修行者が未来に成仏するという予言を得ること」です。曹洞宗の太祖とされる第四祖の瑩山紹瑾(1268年- 1325年)が建立した永光寺などで使うために著された修行僧の規則である『瑩山清規』(永和二年1376年書写版が最古)に注目すべき用語があります。「亡者回向」の「在家平人回向」には、「(前略)奉為某甲 資助幽霊、荘厳報地。伏願身超浄域、業謝塵労、蓮開上品之華、仏授一生之記」とあります。妙樹造立板碑の場合は「受一生之記」とあり、受け手の立場で表現しています。なお、この「仏授一生之記」などのフレーズは、手本となった中国成立の『禅苑清規』(崇寧二年(1103)序刊)の「(前略) 伏願神超浄域業塵労、蓮開上品之花仏授一生之記」を継承している可能性があります。
妙樹禅尼の逆修石塔造立を指導したのは、禅宗、中でも臨済宗僧の可能性が高いと考えています。禅宗の逆修石塔造立供養の有力者女性への普及という視点からみれば、建武五年(1338)、臨済宗松島円福寺において、藤原氏女が逆修「石塔婆」を造立して、「五障雲散して菩提を得る」ことを願った作善思想の流れが、至徳元年(1385)に至って、志津川の領主一族かと思われる女性の同様の作善につながったともいいうるのではないだろうか。そして妙樹禅尼の石塔造立は、関東地方の「禅尼による光明真言逆修」石塔造立の盛行とシンクロした石巻地方の天台浄土教の本尊種子を刻んだ同様の板碑造立の流れにおいて、そのことを踏襲した臨済宗勢力が松島・石巻・追波・志津川湾岸域の教線の中で、在地領主一族の女性を対象とした授戒を含めた独自の活動の結果ではなかったかと考えています。
(詳しくは筆者の田中則和が2015年に投稿した「妙樹禅尼の逆修「石塔」造立─南北朝期南三陸の時空(序論)」が2019年春には東北学院大学より刊行されると思いますのでご覧ください。ただし最新の見解ではありません。)
南三陸町での連続講座案内(南三陸研究会・うみさと暮らしのラボ)