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栗原市入の沢遺跡シンポジウム─古代倭国北縁の軋轢と交流

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栗原市入の沢遺跡で何が起きたか─古代倭国北縁の軋轢と交流」シンポジウム
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2015.9.21 入の沢遺跡発掘調査成果の確認から始まる。
初日、各地の研究者と栗原市民など450人もの参加。

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二日目、各地の研究者と栗原市民など400人参加 延べ850人もの参加者で関心の深さを表す。
最後は、この貴重な遺跡は、ぜひ保存してほしいとまとめられた。
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初日は、県文化財保護課・栗原市教委による出土遺物展示があり、多くの方が興味深そうに見学していた。

【発表メモ】
※各コメンテイターの発表からですが、メモなので正確なところは後日の正式報告お待ちください。
・住居の土屋根は延焼しにくい→複数の住居が火を中からつけられたのではないか。
・塀(高さ約3m)は焼けていないし、大溝にも焼土はない。
・竪穴住居跡1は貴重品庫ではないか。←鏡と玉類は全国一の量と質
・集落自体が鏡など貴重品集積センターではないか。
・玉類からみると関東とのパイプ太く、畿内との関係もある。
・類例の少ない(山前遺跡は集住)区画内集住。
・伊治城遺跡に同時期の柵に囲まれた施設と関わり。
・「豪族居館」とされた山前遺跡(美里町(旧小牛田町)や鶴館遺跡(大郷町)など大規模な溝区画を持 つ拠点的集落の意味するものを究明す る必要。・軋轢と決めてかからない・交流の中の小競り合いもありうる。
・人が戻っていないから軋轢といいうるのではないか。
朝鮮半島ともかかわった動乱の時代の認識必要。
・(貴重品庫にあった品々は)首長が集めたもの、そのまま古墳に入るべきセット。
・地元の大古墳でも鏡を副葬していない。→関東の意向を受けた集団か。
・集めて配るセンター←→入の沢の鉄器は大きくてりっぱだが、北方のは小ぶり。
・ヤマト政権が拡がろうとした時期に古墳を造る社会の人たちが北に一歩進めようとした(八戸・北 上・水沢には点的な集落はある。)。

◎発表者一同 大切に残してほしい貴重な遺跡。
①四世紀の人々の生活を如実に示す稀有の遺跡
②日本列島史を描くうえでかかせない重要遺跡

わたしの感想(門外漢ですが)としては、
最初から「住居」ときめてかからず、「建物」と把握して、住居痕跡を確認する必要がある。
周囲に続縄文土器の出土があり、北方文化との交流が考えられる。一方、入の沢遺跡の鏡多数保有と地元首長古墳に鏡が無いなど大きな違いがあることが分かった。地域内部の独楽かな様相解明に取り組む必要があること。あるいはそこに軋轢がしょうじている可能性はないか。
伊治城遺跡の四世紀の屋敷跡?(首長クラス?)など、伊治城遺跡から入の沢遺跡そして大仏古墳などの一連の空間の中に、四世紀後半における空間の使い分け(機能分担)がある可能性がある。
など友人との話の中から感じたところです。
そして、なによりも入の沢遺跡は、最後のまとめで辻氏が言われたように
8世紀の伊治呰麻呂乱、12世紀の平泉藤原氏の経塚など激動の東北史の節目節目に登場する栗原のすごさ、それとともに生き抜いてきた人びとの歴史を示す郷土の宝として、保存し、学術的な究明を続けながら、国史跡として伊治城遺跡とともに歴史公園として整備するのが最もよいと改めて思いました。

●発表資料集在庫なし。増刷予定。
◎成果報告は後日主催者よりなされるとのことでした。
「古代倭国北縁の軋轢と交流-栗原市入の沢遺跡で何が起きたか-」開催(東北学院大学)


保存決定と思っておりましたが、未だ危機的状況の高尾山古墳(沼津市)
「さらに、8月26日の定例記者会見では「表土の剥ぎ取り調査によって古墳を解体し道路を整備するという選択肢については、依然として有効であるとの考え」を示しました。」