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多賀城南辺築地・櫓跡現地説明会─88次調査

主催:多賀城跡調査研究所 目的:Ⅱ期以降の外郭南辺の残存情況、構造、変遷の解明。
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寒い日でしたが、「礎石立ちの櫓を初めて発見」の報に、たくさんの古代史・考古ファンが参加しました(後方が多賀城の丘陵)。
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(グーグル・アースより)
築地塀を長さ15mにわたって検出するとともに、築地塀に取り付く櫓を発見しました。また、築地塀に関わる施設として、土台となる基礎盛土。犬走りを含む築地塀両脇の嵩上げ整地や寄柱の礎石、櫓に関わる施設として土壇が見つかりました。土塁状の高まりから築地塀の存在は想定していましたが、正確な位置や方向、規模・変遷などの詳細がわかりました。さらに櫓では新たに礎石式の櫓の存在が判明しました。」(現地説明会資料より)
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 「土塁状の高まりのほぼ中央で、築地塀と両脇の嵩上げ整地や寄柱の跡などを検出しました。築地塀は、低湿地の地盤を強化するために大規模な基礎盛土をした上に造られています。本体は高さ1.1~1.2mほどが残っており、幅は一番下の基底部で約2.7mあります。また、積み直しによる補修が3回行われたことがわかりました。そのうち2回目の積み直しは調査区全休に及ぶもので、大きな改修だったとみられます。
 築地塀の両脇には、「犬走り」を含む平らな面がつくられています。 10~30cmの厚さの整地による嵩上げが3回みられ、合計4つの面があることがわかりました。築地塀が立ち卜がる部分では寄柱を立てた上面が平らな礎石が2個児つかっています。
 築地を造る前には、地盤強化のために南北幅15m、高さ1.0m以上の基礎盛土が行われています。その南北両端では、土留めのしがらみに伴う径10cm程度の丸材が30~40cm開隔て打ち込まれています。
 最初の嵩上げ整地に焼土と焼け瓦がふくまれることから、この場所に築地塀が造られたのは、第Ⅱ期以前とみられます。また、灰白色火山灰が降った第IV期(869~)中の10世紀前葉までには最後の嵩上げ整地が終わっていることがわかりました。したがって、築地塀の補修は、その間の伊治公呰麻呂の乱や貞観11年(869)の貞観の大地震からの復興などによることがわかっています。」(現地説明会資料より)

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「調査区の中央で、築地塀に取り付く櫓1・2を検出し、櫓1のあとに櫓2が造られています。櫓1は最初に築地塀が造られた第Ⅱ期以前に築地塀と一緒に建てられており、その後に2回の建て替えが考えられます。したがって、この場所の櫓は、櫓1で3時期、櫓2で1時期あり、都合4時期の変遷があることがわかりました。
 櫓1は東西3間(6.4m)、南北2間(5.6m)の建物で、築地塀をまたいで建てられています。南側では東西6.6m以上、南北4.2mの土壇の上に造られており、土壇に3時期の変遷があることから、建物も2回建て替えられたと考えられます。建物の柱は最も新しい3時期目が礎石式、2時期目は掘立式の構造で建てられています。最初の建物の柱構造はまだ不明ですが、そのときの土壇が築地塀脇の最も古い平坦面の上に造られていることから、第Ⅱ期以前に築地塀が造られたときに櫓も一緒に建てられたことがわかしました。第Ⅱ期以前の櫓はこれまで外郭東辺では見つかっていましたが、今回の調査で南辺にもあることが判明しました。
 櫓2は東西3間(9.6m)、南北1聞(2.1m)以上の礎石式の建物で、3回目の嵩上げ整地の上に建てられています。築地塀の北側のみで礎石とその根石が見つかっており、南側を築地塀の上に乗せる構造の櫓とみられます。2ヶ所に残る礎石は長さ60~70cmの上面が平らな石で、そのうちの1つには柱を立てる位置の目印として十字の線が刻まれています。古代東北の城柵遺跡で今までに見つかった櫓は掘立式の建物でしたが、今回多賀城で初めて礎石式の櫓がみつかりました。」 (現地説明会資料より)

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宝亀11年(780)の伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱の火災跡と推定。

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(東から)

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「遺物は、築地塀や櫓に葺かれたとみられる瓦が300箱以上出土しています。その中には、表面が火熱ですすけたり、はがれ落ちているものもあり。櫓や築地塀宝亀11年(780)の伊治公呰麻呂の乱の際に火災に遭ったことを示す資料として注目されます。ほかには、少量の土器と木簡が5点出土しています。木簡は北側の湿地から出土しており小さな断辺がほとんどですが帳簿とみられるものもあります。」(現地説明会資料より)
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(木簡 明るくすると字が書かれているのが分かります。)
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まとめ
①この場所の築地塀と櫓の詳しい状況が明らかになりました。第Ⅱ期以前には築地塀や櫓の補修が無いことから、この場所に外郭南辺が造られたのは第Ⅱ期の可能性が高いとみられます。
②櫓は、この場所に外郭南辺が造られた当初からあり、南辺でも第Ⅱ期以前の櫓の存在が判明しました。また、平安時代には礎石式の櫓が建てられたことが初めてわかりました。」 (現地説明会資料より)
多賀城跡第88次発掘調査現地説明会開催について(多賀城跡調査研究所) - 宮城県公式ウェブサイト