南北朝時代の千人仏の石塔─『南三陸の山城と石塔』の表紙から・南三陸の現在

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「安永三(1774)年に仙台藩に提出された『入谷村風土記御用書出』には「古碑」として「人おて山」が金の採掘で賑わっていた時に、遊女を誘い敷地内に入れたところ、山が沈み数百人の金堀りの人々が亡くなった。この石碑はその供養のために立てられたもので一字の梵字と貞治という年号が見えるとのことが書いてある。」(『南三陸の山城と石塔』より)
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立地(標高約90m 志津川湾を望む グーグルアース2011.4.6)
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拓本を張ったままで写真を反転させると、この石塔に刻みつけられたモノが見えてきます。
「地上高175㌢、幅74㌢、厚さ35㌢ある尖頭形の堂々とした石塔である。阿弥陀如来のシンボルであるキリークの梵字の下、中央に「貞治二年(1363)二月三日」、その左右に光明真言という「一切の罪業が除かれる」という神聖なる言葉が梵字で刻まれている。鎌倉時代の書籍『光明真言効能』には「もし、亡者の墓に向かって四十九反唱えれば、阿弥陀如来、その亡者を導き来て、必ず極楽浄土に往生せしめたまう也、もし又人有て、この真言を率都婆(そとば)に書きて、父母の墓に立てれば、その父母、無量業をふるも悪趣に落ちず、蓮花の上に化生」つまり、石塔に光明真言を書けば、阿弥陀如来の導きで極楽浄土に往生する意味のことが書いてあり、この石塔の阿弥陀如来と光明真言の組み合わせに合致する。(『南三陸の山城と石塔』)
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中世の石塔(板碑)とはこのようなものです(写真は歪み修正写真=オルソフォト)。
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なぜ、カモシカと出逢うような山中に南北朝時代の大きな石塔が立っているかが問題です。拙著をごらんください(答えはでていませんが手がかりはあります。)。
千人仏の板碑(入谷信倉) | 中世の板碑 | 歴史の標 | 南三陸町 VIRTUAL MUSEUM
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南三陸の山城と石塔 (河北選書)

南三陸の山城と石塔 (河北選書)



最近の南三陸 2018.10

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志津川城こと朝日館跡付近は復興工事真っ盛り(クルマ走行注意)

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南三陸町新庁舎

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志津川 さんさん商店街付近

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戸倉

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戸倉 魔王神社下の新しい団地から波伝谷方向を望む


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石巻市雄勝町

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石巻市十三浜大室団地


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女川町新庁舎


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