南三陸町水戸辺川流域の「慶長大津波」伝承地踏査─『戸倉路のつたえ-語り継ぐ津波の道標-』に寄せて

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南三陸町在住の西條實氏著『戸倉路のつたえ-語り継ぐ津波の道標-』 (RQ聞き書きプロジェクト編)が刊行され(非売品)、寄贈いただきました。
震災津波と復興途上の困難な状況の中で関係者の努力により南三陸の慶長地震津波伝承が初めて紹介されたことを慶びます。
このことに寄せて、南三陸町戸倉上沢前地区の水戸辺川(みとべがわ)流域における「慶長大津波
伝承地の踏査結果の概要を紹介いたします(今後補正予定)。
●ウェブ版150530
戸倉路のつたえ ~語り継ぐ津波の道標~西條實さん[宮城県南三陸町志津川戸倉] | 東日本大震災 RQ聞き書きプロジェクト 「自分史」公開サイト
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(赤色マークが「慶長大津波」伝承地)

1 経緯
2013年6月に南三陸町在住の西條實氏より「慶長大津波」伝承を教えていただきました。「1616年旧11月4日」のこととする伝承は、いわゆる「慶長三陸地震津波」の発生した11月28日(グレゴリオ暦12月2日)とは異なっていますが、慶長三陸地震津波」に相当すると考えられます。このような貴重な伝承を学術的に研究し、防災にも資することができるかも知れないと思い、東北大学災害科学国際研究所に情報提供いたしました。そして、6月15日には、西條氏よりその伝承のメモと水戸辺川流域の津波伝承地の手書きの地図をいただくとともに、氏の案内で水戸辺川流域(戸倉)を歩きました。東日本大震災津波の遡上域を越えてさらに奥まで津波が遡上しているという伝承に驚きました。
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  (2013.6.15 津波で家屋のほとんどが流出した戸倉在郷から水戸辺川上流を望む)
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             (赤色が東日本大震災津波浸水域・中央が水戸辺川流域)

東日本大震災津波詳細地図〈上巻〉青森・岩手・宮城

東日本大震災津波詳細地図〈上巻〉青森・岩手・宮城


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                    (2013.6.15 伝慶長地震津波到達地点)
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                            (2013.6.15水戸辺川踏査)
また、先日、町にこの伝承が存在することを報告するという祖父の願いが果たされたことをお聞きして喜んでおります。
ここでは、2014年5月3日に西條様のご案内で、水戸辺川流域を再踏査した記録を主に西條様のご了解をいただいた上で、今後の検証・研究の資料とするために紹介します。


2 「慶長大津波」伝承の概要(西條さんのメモ及び『戸倉路のつたえ』から)

1616年旧11月4日 慶長大津波
私の祖父、吉治(戸倉村村会議員)、昭和21年死亡
当時、私は中学一年、祖父より言い伝えにより
私か20歳になったら、志津川町役場に提出すること(と言われていましたが果たせないまま)今回の震災の津波で(祖父の書き残した記録は)流出してしました。(以下、略)」
「わたしの祖父から伝承している地名とそのいわれは次の通りです。なお、地名は、祖父が戸倉村役場に在職中に、青森営林署、地方の方々と立会いの上確認したものです。」(『戸倉路のつたえ』)
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                  (西條實氏の手書き地図 2013.6.15)
「沢々の地名
上沢前
出笹沢(でささざわ) 笹が群生しており、津波で多数の笹が押し寄せられていた
藁穂沢(わらぼざわ) 山の窪に穂が付いたままの藁が積みあがっていた
女の沢(おんなのさわ) 女の人が沢の奥地で亡くなっていた
鳥越沢(とりごえざわ) 津波の中から一羽の鳥が西戸の方へ飛び立ったので、避難していた人々が喜んだ
牛殺し沢(うしころしざわ) 牛が重なりあって死んでいた
吉三郎沢(きちさぶろうざわ) 吉三郎という人が死んでいた
きつね子沢(きつねこざわ) キツネの子が死んでいた
遠の木沢(とおのきざわ)色とりどりの雑木林のある沢
大害沢(たがいさわ) 一番被害のあった沢
舟沢(ふなざわ) 舟が寄っていた(流れついた)沢 
小屋の沢(こやのさわ) 家が寄っていた(流れついた)沢
タタカイ沢(たたかいざわ) 海水と川の水が戦ったとされる慶長津波の最終地点」


3 2014.5.3踏査写真・GPS表示(google・ゼンリンによる)

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出笹沢「笹が群生しており、津波で多数の笹が押し寄せられていた」


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藁穂沢「山の窪に穂が付いたままの藁が積みあがっていた」


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女の沢「女の人が沢の奥地で亡くなっていた」


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女の沢から鳥越沢(「津波の中から一羽の鳥が西戸の方へ飛び立ったので、避難していた人びとが喜んだ」)を望む。


東日本大震災津波最終到達地点】
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東日本大震災津波到達地点のさらに奥に伝慶長地震津波到達地点
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東日本大震災津波到達地点


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吉三郎沢「吉三郎という人が死んでいた」


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きつね子沢「キツネの子が死んでいた」


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遠の木沢「色とりどりの雑木林のある沢」


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大害沢(たがいさわ) 「一番被害のあった沢」


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左、舟沢(ふなざわ) 舟が入っていた(流れついた)沢
右、小屋の沢(こやのさわ) 家が寄っていた(流れついた)沢
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近くの「谷止」には「フナイ沢」の表示

【伝慶長津波最終到達地点】
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タタカイ沢(たたかいざわ) 「海水と川の水が戦ったとされる慶長津波の最終地点」

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               (戸倉在郷水戸辺川下流域の現況140503)

西條實短歌集 ─大震災を越えて南三陸に生きる - 縁果翁記

 
本吉郡における慶長16年津波について─入谷地区に関する古記録・伝承
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  (東日本大震災津波志津川秋目川まで及んだ『東日本大震災津波詳細地図』)

慶長16年の津波は下記、蝦名裕一氏の「ビスカイノ報告」などによれば、三陸の越喜来(現岩手県大船渡市から相馬領中村(現相馬市)までの被害が確認されているので南三陸津波は十分に予想される。しかし、『風土記』など近世資料に直接的証拠は見出せない。ただし、『歴史の標』(志津川町1991)によると入谷村に居住していた「伊藤(慶長末年大槻氏に改め)清右衛門祐次」が入谷村に居住していた時「慶長十六年十月に海水があふれて溺死、この時、武具や系譜を失った」ことを伝えるとあることは、慶長16年10月に津波があったこと及びその遡上域について重要な情報である。『宮城県姓氏家系大辞典』(角川書店)を参照すると仙台藩家臣伊東祐親の次男祐清を祖とする大槻家を指していると考えられる。東日本大震災津波は、浸水域地図によると入谷の東端近くの志津川小森さらに秋目川(92-2付近)まで津波が押し寄せている。前述のように、入谷の伊東家屋敷に津波が押し寄せているとすれば、慶長16年の津波の浸水域は東日本大震災津波より奥に遡上したことになる。
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 (入谷津波伝承地周辺「南三陸の森里海マップ」東北グリーン復興2014より)
宝暦七年(1757)に安部泰武翁が著した『入谷安部物語』と『入谷古今集』をもとに編集した『入谷物語』(入谷郷土史研究会1980)によると、入谷水口沢の「舟河原屋敷」は「昔津波がが襲ってきた時、ここまで舟が上がったののでこの名がつけられた。」とあり、同じ水口沢の「上砂屋敷」は「ここは大昔津波があった時、砂が押し上げられたのでこう名づけられた。」とある。さらに「桜葉沢」(「桜」は「桵」の誤植)地内の「残谷屋敷」は、「昔津波のあった時、近くまで水が押し寄せてきたが、ここまでは水がはいらなかったので村人も旅人も命が助かったというのでこういわれたとのみとである。」とある。このように津波伝承が分布していることは、あるいは今回の東日本大震災津波より奥まで慶長地震津波が遡上したことを反映している可能性も考えられ、水戸辺川の津波伝承についても対応してくる可能性があるのではないか。もっとも入谷、水戸辺川とも津波の遡上は今回の津波の遡上到達点をはるかに越え、谷の奥に及んでいることからも、今後、資料、伝承の探索や地形学など科学的検証なとにより南三陸における近代以前の津波の調査・研究がなされることを望みます。
なお、戸倉水戸辺の「経文塚」は「昔、津波に襲われた時、一人の和尚がそこに座り、津波の収まるのを願って経を唱えたところ、奇しくもその手前で鎮まったと伝わっている」ことを太宰幸子氏は、『地名は知っていた(上)─気仙沼塩竈 津波被災地を歩く』で紹介している。また、同書には、入谷大船沢には「津波で大きな船が流されてきた」という伝説が紹介されている。

                (2014年5月18日 田中則和 0521・31追記) 
【参考】

地名は知っていた 上―津波被災地を歩く 気仙沼~塩竈 (河北選書)

地名は知っていた 上―津波被災地を歩く 気仙沼~塩竈 (河北選書)


【おすすめ本】
現在の「慶長奥州地震津波」研究の達成点は、蝦名裕一氏(東北大学災害科学国際研究所)の『慶長奥州地震津波と復興』(蕃山房2014.4)に完結に記されております。また、『東日本大震災を分析する2』(明石書店 2012)
「慶長奥州地震津波について─400年前の大震災の実相─」があります。
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蕃山房 » 新刊案内01

東日本大震災を分析する2 -震災と人間・まち・記録-

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蝦名裕一 「1611年慶長奥州地震・津波を読み直す」400周年シンポ

歴史としての東日本大震災: 口碑伝承をおろそかにするなかれ

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福島 フクシマ FUKUSHIMA 歴史津波

【慶長津波伝承関係リンク】
東日本大震災支援全国ネットワークin宮城

◎発掘された慶長地震津波痕跡か
高大瀬遺跡現地説明会─東日本大震災・慶長・貞観津波堆積層 - 縁果翁記
・参考
聞き書きプロジェクト "MEMOKKO": 江戸時代、南三陸を襲った津波の足跡について聴く

◎続編
慶長津波伝承地行─南三陸町入谷 - 縁果翁記