入の沢遺跡「保存」へ・「火山灰から社会をよむ」・「葛西氏の興亡」展を観る─文化の日に

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(絶景。岩手県立博物館から岩手山を望む)
朝から栗原市長の国県への入の沢遺跡保存要請のニュースに喜ぶ。文化の日にちなみ注目の岩手県博「火山灰から社会をよむ」展関連文化講演会、一関市博物館「葛西氏の興亡」展をめぐる。

「(佐藤市長は)国道4号築館バイパス建設予定地内にある同市築館の入の沢遺跡(古墳時代前期、4世紀)について、国史跡の指定を視野に保存する考えを明らかにした。保存を前提にした工法やルートの再検討を国や県に求める。(中略)佐藤市長は「大変な文化財が出土した。国と県には(保存という)市の考え方を伝えた。ただ、市の発展のため計画を変更してでも、バイパスは全通させてほしい」と述べた。」(河北新報より)
「国道4号築館バイパス建設が予定されている栗原市の「入(いり)の沢遺跡」の保存問題で、佐藤勇市長は2日の記者会見で、建設用地の代替地を市が準備する方針を明らかにした。遺跡の保存とバイパスの早期完成を重視し、国が経路を変更する際に備える。
 遺跡と建設予定地が重なるのは約2万平方メートル。県教育委員会は2014年度に遺跡調査を始めた。16年度までに、重要部分の約6千平方メートルを調べる予定だった。昨年の調査で、大和政権の影響下にあったことを示す古墳時代前期の銅鏡が出土し、日本考古学協会が県教委などに保存を求める要望書を出していた。市は今後、県教委と遺跡保存について協議を進める」(朝日新聞より)
「さらに今後の発掘状況をみながら国史跡への指定の申請や、「栗駒山(さん)麓(ろく)ジオパーク」のジオサイトへの追加も検討するとした。」(毎日新聞より)
栗駒山麓ジオパーク - 栗原市
栗原市の決断。国交省への入の沢遺跡保存要請に賛成。国交省の道路工法もしくはルート変更の地元の負担の少ない速やかな実施を望みたい。そして、この類まれな歴史文化遺産を国・県支援で歴史公園として活用するべきだと考えます。
国交省の政策と栗原の地域振興に寄与する位置付をして、国交省の英断を望みたい。


「栗原の「入の沢遺跡」歴史ロード整備の核に」について
河北新報の「時論特論」欄(11月2日)には「栗原の「入の沢遺跡」歴史ロード整備の核に」と題した鹿目堪六氏の投稿が掲載された。本年9月に栗原で開催された入の沢遺跡のシンポジウムの成果を受けて
「(前略)入の沢遺跡は、後に「奥大道」と呼ばれる北へ向かう道の近くにある。そのルートは、今は国道4号になっている。古代から営々と道というインフラを整備して来た人々の強い思いを感じる。 
 入の沢は、くしくもその国道4号の築館バイパス建設工事に伴って発見された遺跡である。調査結果だけを残すのではなく、史跡公園として整備し、先人の思いを伝えるものにしてほしい。
 また、宮城県北には伊治城跡(栗原市)、名生餡遍跡(大崎市)、山前遺跡(美里町)鶴館遺跡(大郷町)など興味深い遺跡が多い。これらの遺跡と人の沢遺跡を広域的に組み合わせて歴史ロードとして活用してはいかがだろうか。はるかな昔、この地域で繰り広げられた壮大な歴史が、もっと身近に感じられることだろう。 そして、この地域への歴史的な関心を高めることが、いまだこの地のどこかに眠っているかもしれない貴重な遺跡の発見につながってほしいと願う。」とある。民間からの積極策として評価される。
宮城県考古学会-会からのお知らせ

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岩手県立博物館からの岩手山の雄大な景観
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テーマ展「火山灰から社会をよむ」関連文化講演会 
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能登健氏(群馬大学)の「災害考古学のゆくえ」
テーマは「あなたは災害にどう立ち向かいますか」
結論は、火山、地震津波は防ぎようがないから、「なるべく安全な場所に住むこと」。
時代を超えて大事なのは「地域のコミュニケーション」を保つこと。
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展示は、考古学的な手法による十和田・白頭山火山噴火と北東北の人々の動向を探る画期的な企画。10世紀の十和田火山の説明では「この噴火は、過去2000年間に日本国内で発生した噴火の中で最大級の規模であったとされています。大規模な火砕流が発生して周囲20kmに到達し、一部は秋田県の大湯川から米代川沿いに流れ下り、泥流(ラハール)となって能代まで広がりました。
 もう一つ特徴的なのは、火山灰の広がりです。十和田a(TO-a)と呼ばれるこの火山灰は、南方約300kmにも及びました。東北一円に降り注ぎ、一帯を覆い尽くしてしまったのです。」とあります。
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展示の構成は、
「第1章「火山『十和田』と『白頭山』」
過去2000年間に起きた火山噴火の中で、国内最大級の「十和田」と世界最大級「白頭山」。その概要を解説します。
第2章「遺跡に残る噴火の爪痕」
北東北各地の遺跡に残る「十和田」と「白頭山」の爪痕。10世紀前半に刻まれたそのありさまをご覧ください。
第3章「火山灰から社会をよむ方法」
遺跡で見つかる火山灰から「災害」の様子をよみ、背後に社会を透かしみる。その方法に焦点を当てます。
第4章「巨大噴火と地域社会~さまざまな復興のかたち~
続けざまに起きたふたつの巨大噴火に人々はどう対応したのか。噴火前後の社会を比較し、その謎に迫ります。」となっています。」(上記HPより)
考古学をやるものにとっては二つの火山灰を挟んだ土器の変遷を多量の土器群から観察することができます。

一般の方が理解するには、学術的用語をもう少しかみくだいだ説明が工夫されるとなお良いと思いました。遺物も絞りこんだ上での見どころ解説がほしいところでした。
200円の解説書には情報が満載されていますが、ぜひ、お出かけしていただいて火山灰や軽石に会場のコーナーでぜひさわっていただきたい。

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一関市博物館 「葛西氏の興亡」最終日。
奥州藤原氏の後を引き継いだ葛西氏の四百年の興亡に感慨。
挨拶にこうあります。「文治五年(一一八九)平泉藤原氏を討ち滅ぼした源頼朝は、抜群の功を誇った葛西清重に磐井郡など五郡二保を与え、さらに藤原氏に代わって平泉を拠点とした政治指導を行うべく奥州惣奉行に任じたとされます。以来、葛西氏歴代はこの地を足がかりに勢力の伸張を図り、鎌倉時代最末期頃に関東から奥州に拠点を移して本格的に領国経営に乗り出したのでした。やがて、葛西八郡とも称される広大な領土を手にし、葛西氏は戦国大名化を遂げます。しかし、時代は豊臣秀吉による天下統一目前であり、葛西氏は睛信を最後の当主として一挙に没落します。さらに旧臣等による葛西大崎一揆の結果、復活の道は完全に閉ざされたのでした。
その後、旧臣の多くは帰農しますが、江戸時代を通して葛西旧臣であることに誇りを持ち続け、各地で肝人、大肝人といった地域社会の指導的な役割を担って庶民生活の安定に寄与したのです。
そしてその旧臣としての思いは現代に至るまで息づいてきました。
本展では、こうした四百年に及ぶ葛西氏の歴史とその後の影響について、良質な史料から紹介すると共に、新たな視点を積極的に掲げたいと思います。」(一部 図録より)
古文書満載で関心のある人向けだが、「江戸時代の旧家臣」のコーナーにたたずむ老人に「もしや、家臣の子孫の方」と想いを馳せる。
http://www.iwanichi.co.jp/ichinoseki/5629.html
奥州葛西氏-属した武将家-
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展示は本日で終了しましたが、谷口榮氏、入間田宣夫氏、中川学氏の論考も掲載されている詳細な図録が販売されているのでご利用ください。
一関市博物館