南三陸町・新井田館跡調査現地説明会-2013.11.23-

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南三陸町新井田地区の津波で流出した家屋の基礎と新井田館跡(2013年11月23日)
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調査現地説明会の様子(公開については南三陸町教育委員会の許可を得ています)

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南三陸町新井田館の発掘について
 南三陸町の山城跡、新井田館跡(にいだたてあと)は2011年11月3月11日に発生した東日本大震災津波からの復興事業の一つである中央団地造成に伴い大規模な発掘調査が実施された。その結果は、それまでほとんど知られなかった南三陸の戦乱の室町時代を物語る重要な成果となった。調査成果は緻密な報告書にまとめられたが、その性格上、一般の方には難しいものであり、もっとわかりやすく語りたい。筆者が、このたび『南三陸の山城と石塔─東日本大震災後の調査でわかったこと』(河北新報出版センター 864円)を書いた目的の一つである。しかし、拙著はモノクロ主体の小さな本でありビジュアルの面ではわかりにくい。そこで、動画でお届けすることを考えた。まずは、以前、南三陸町教育委員会の許可を得て公開した現地説明会のビデオを再編集してお届けする(編集技術は超初心者でありお許し願いたい)。
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 新井田館の時代は15世紀、室町時代金閣寺を建てた三代将軍足利義満から四代の義持に移っていく時代で、応永七(一四〇〇)年には奥州探題として斯波氏(後の大崎氏)が任じられ、現在の大崎市付近に赴任してきたとされる時代である。しかし宮城県の沿岸部の様相は記録がなくほとんど不明で、山城全体をまるごと発掘調査した例は宮城県では極めて少ない。その結果、室町時代志津川では、領主が、山上に立てこもらざるを得ない、軍事的緊張の状況であったことがわかった。そして、志津川湾沿岸の航路・街道を見通し、内陸から街道の出入り口を抑える重要な位置に、東アジアの品々を入手しうる有力な武士一族が存在したことが明らかとなったのである。
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南三陸の山城と石塔 (河北選書)

南三陸の山城と石塔 (河北選書)