南三陸研究会─海の信仰とゑびす(恵比寿)と悪玉口説き

三陸研究会 2022.9.17 西宮えびすかき

 2015年より続く「南三陸研究会」(代表:山内明美氏(宮城教育大学))。第18回の今回は「気仙沼市出身でカツオ漁の民俗調査を長年続けてきた日本民俗学会会長の川島秀一さんを講師に招き、「海で生きる」とはどんな営みなのかを、皆さんで一緒に考えていきます。」(HPより)とのことで南三陸町生涯学習センターへ。以下は当日の配布資料「海の信仰とゑびす」(山内明美氏、姜信子氏)を参考に記述する(9.21改訂)。
まずは、兵庫からお越しの「西宮のえびすかき」。武地氏の明るい恵比寿様が会場を元氣付け笑いを誘った。

三陸研究会 2022.9.17 西宮えびすかき
三陸研究会 2022.9.17 西宮えびすかき

sugoist.pref.hyogo.lg.jp
夷舁きとは - コトバンク
youtu.be
えびす宮総本社 西宮神社 公式サイト - 由緒 御鎮座伝説
https://nishinomiya-ebisu.com/newsletter/backnumber/038.pdf
西宮えびすH25↑
www.hanmoto.com


続いて川島秀一先生(日本民俗学会会長兼漁師とのこと)のお話しは「漂泊するエビスたち」。全国的な事例を紹介されたが、沖縄と伊豆七島にはないという。寄り物型と龍神型。全国的にあるエビス盗み。本質は移動性にある。外来の神。北九州では水死体をエビスとする。。。
仙台藩では西宮社からのの願人を統制し、志津川気仙沼でも夷願人が札を配ったなどの興味深いお話し。最後に水俣茂道の「のさり」は「寄り物」よりさらに深いレベルとお話しされた。

三陸研究会 2022.9.17 漂泊するエビスたち 川島先生

plaza.rakuten.co.jp

ベースはこちらか↓。
www.kinokuniya.co.jp
川島秀一著『漁撈伝承』書評 花部秀雄
https://ko-sho.org/download/K_027/SFNRJ_K_027-19.pdf
読みたくなった本と展示

↓波平恵美子「水死体をエビスとして祀る信仰」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/minkennewseries/42/4/42_KJ00002403203/_pdf/-char/ja
志津川西宮神社 「西宮えびすH23新春号」H22,12
https://nishinomiya-ebisu.com/newsletter/backnumber/034.pdf

www.bookbang.jp
第4展示室 特集展示『エビスのせかい』|プレスリリース|歴博とは|国立歴史民俗博物館


さらに、第二部「恵比寿祭り」があって説経祭文師の渡部八太夫氏の奥浄瑠璃「悪玉口説き」(『田村三代記』)などを聴けたのは収穫。

三陸研究会 2022.9.17 渡部八太夫「悪玉口説き

まずは「琵琶に磨碓」から。奥浄瑠璃仙台藩南部藩で流行った「ぼさま」の弾き語り。鈴木幸龍氏の1933年上演記録(NHK 宮城教育大学)を80年ぶりに再現!。


wata8tayu.hatenablog.com
↑当日の様子がご本人様からアップされました。動画で「琵琶に磨碓」と「悪玉口説き」をお楽しみください(9.21。

1633夜 『琵琶法師』 兵藤裕己 − 松岡正剛の千夜千冊
「3・11のあと何度となく『奥の細道』の記述をふりかえっていたのだが、そのとき、芭蕉塩竈で奥浄瑠璃を聞いていたという記事に目がとまった。塩竈のどこかの小屋に琵琶法師めいた芸能者がいて、奥浄瑠璃を語っていたというのだ。元禄2年(1689)の5月の記事である。
 「その夜、盲目法師の琵琶をならして奥浄瑠璃といふ物を語る。平家にもあらず、舞にもあらず、鄙びたる調子うちあげて、枕近うかしがましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚えらる」とある。
 こんなことが気になったのは、5月に被災後の鹽竈神社に寄って芭蕉を思い出していたからだった。ただ彼の地に、かつて奥浄瑠璃という芸能があったということはどういうことなのかよくわからず、また「平家にもあらず」というところが気になった。東北では平家は人気がないのだろうか。
 これは兵藤裕己をもう一度読みなおさなければと思って(兵藤の平家論はかつてのどの論考よりも新鮮なので)、久々に『平家物語の歴史と芸能』(吉川弘文館)や『平家物語―〈語り〉のテクスト』(ちくま新書)などをひっくりかえすとともに、当時最新刊の本書を読んだのだ。それが今夜の1冊との出会いである。コンパクトな新書ながら平家読みの当代第一人者の鋭い案内だけに、さすがに考えさせられた。
(中略)
 で、その奥浄瑠璃であるが、芭蕉の見聞からほぼ100年後の天明6年(1786)に、菅江真澄が平泉で琵琶法師の語りを聞いたという記録がのこっていた。さすが菅江だ。万端、見のがさない。この見聞記では、琵琶法師が琵琶ではなくて三線をつかって、《曾我》《八島》《尼公物語》《湯殿山の本地》などを弾き唄ったと書いている。
 奥浄瑠璃は、芭蕉から真澄に時代が移るなか微妙に変質していったらしい。兵藤によると、文政年間の喜多村信節の『嬉遊笑覧』に「仙台浄瑠璃」のことが書かれたあたりを最後にしだいに衰え、その後は細々と伝えられてきたようだが、その流れは1973年に没した北峰一之進を最後についに廃れたらしい。」(上記松岡正剛「千夜千冊」HPより)
参考になるブログを見つけました。
omma.hatenablog.com
omma.hatenablog.com
omma.hatenablog.com
omma.hatenablog.com
omma.hatenablog.com
想いで神楽の「田村三代記」。
tentijin8.hatenablog.com

読みたくなった本↓
honto.jp


さらにはピヨピヨ団の賑やかな「恵比寿祭」。最後に関東大震災から100回忌を機に「近代」の「犠牲」を振り返り、これからの100年を「いのちに帰したい」とする予祝の芸能祭「百年芸能祭」を2023年9月まで日本各地で催すとのお話が代表よりあった。

三陸研究会 2022.9.17 恵比寿祭
三陸研究会 2022.9.17  終りに

www.m-kankou.jp
wata8tayu.hatenablog.com
wata8tayu.hatenablog.com
関東大震災の奇跡 100周年写真レポート 山村武彦 関東大震災の概要

wata8tayu.hatenablog.com
yomukakuutau.hatenadiary.com
elsewhere.exblog.jp
booklog.jp

追記
志津川西宮神社は、まさに「漂泊するエビス」様でした。
宮城県神社庁
「抑当町東山に鎮座まします西宮神社は、今から凡そ800年前摂津国武庫郡西宮神社より蛭児大神、天照大神の御分霊を奉齋し、寛保2年正月以来、西宮大神の「御神像之札賦与之」の神職免許状」を別当山本家に授与され、近くは文久2年5月23日神祇官領長上侍従卜部朝臣より西宮神社神職裁許せられ、奉仕してきたものである。然るに山本家の氏神として奉齋していた大国主神事代主神の御神像が、由あって次々と他家の手に渡り、遠く西国は大阪に渡る。この御神像を入手した館の主の夢枕に立ち、「我が郷土は奥州の地に在り、その処に安座する」との御告げを得てより、両大神入手された各館は次々と破産の由伝えられ、遂に御神像は渡り渡って石巻に至る。かくて久しく牡鹿郡石巻町沢口家の氏神八幡神社に合祀されていたのを、当志津川町の敬神家に譲り、石巻町佐藤仙六氏の協力を得て、この地に勘請の議を進めるや、両大神の御託宣により、沢口家の快諾するところとなり、大正5年10月甲子吉辰を卜し佐藤熊五郎、千葉清平の両氏が御神像奉迎のため石巻に至り、勘請して十日町裏屋敷山本静氏宅に安置せり。それより2年後の大正7年10月20日、山本家が仙台へ移住するに至り、当町千賀大啓氏の先代を経て、本浜町の漁師仲間で恵比寿講を創設、御神像を拝受して、佐々木金一氏宅に仮安置し大正11年10月20日、東山鎮座西宮神社の社殿を修理造営してこれを合祀し、爾後山本家の親戚川村由治氏宅が別当職を継承し、昭和48年御社殿を増築して今日に至る。」(上記HPより)


【参考文献】
参考(柳田国男『雪国の春』)↓
「「配志和はいしわの若葉」やその前後の日記を見ると、奥州の座頭たちの生活が、すこぶるこの旅人の興味を引いていたことが知れる。前沢の町には正保というボサマがいて、おりおり同席して話をすることもあった。一通りは歌も詠んで、彼が松前に立つ前などは送別の吟を寄せている。物覚えのよい人同士、おそらくはしばしば、閑談の交換をしたことと思う。冬籠りの奥羽の村では、以前は座頭は欠くべからざる刺戟機関であった。ことに正月もやや末になって、再び炉の側の沈黙が始まろうとするころには、若い者や小児は堪えかねてボサマの訪問を待ってきた。そうして偶然にもその人々の群れの中に、三河国菅江真澄がいたのである。
 盲人は弟子を連れて来て、一曲の後にはいわゆる早物語はやものがたりを語らせた。愛嬌のあるボサマたちは、おりおり自分でもこしらえた世間話、または由緒ある昔話をした。
 天明八年二月二十一日夜の条に、胆沢郡六日入の鈴木家の囲炉裏のそばに、何一、くれ一の二人の盲法師が、一夜の宿を与えられて坐っていた。三味線を取り出して弾こうとすると、童児が口を出して「ゾウロリ(浄瑠璃)なじょにすべい、それ止めて昔々かたれ」という。「何昔がよかろうか」というに炉の向こうにいた家刀自いえとじが「琵琶びわにスルスでも語らねか」と言ったとある。
「さらば語り申そう聞きたまえや。昔々どっと昔の大昔、ある家に美しい娘が一人あったとさ」と、語り始めたのは琵琶法師聟入むこいりの喜悲劇であった。昔の「猿の聟」の作り替えのようなものであった。夜どおし琵琶を弾くなら娘をやろうと約束したために、夜が明けると手を引いて連れて行こうとする。台磨碓したずるすを薦こもに包んで米俵だといって負わせて出す。路傍に休んで座頭がこういった。目もない人のオガダになって、一生うざねを吐こうよりは、この川へ飛び込んで二人で死のう。そんならそうとその臼を出して、水の中へどぶんと投げ込み、娘は片脇に隠れて見ていると、盲も泣きながら続いて淵へ飛び込んだ。身は沈み琵琶と磨臼するすは、浮いて流れてしがらみに引っかかる。そこで今でも琵琶に磨臼のたとえあり、「といひてはらり」と語ったと記している。」
【参考】
↓「諸般に亘る博識を辿って 菅江真澄随筆連想」(新野直吉)   
https://www.akihaku.jp/publication/masumi/masumi-report18.pdf


ウクライナ・ロシア
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