板碑は石の仏塔である。
以前お知らせした鹿又堤防の板碑についてです。5月26日現地に行ってみると、前面が刈り払われていました。堤防工事が今にも及びそうな状況です。
工事が迫る石巻市鹿又堤防の永仁の巨碑など3基の板碑の文化財登録と保存及びややむ負えない近地への移転の場合の発掘調査を要望いたします。
未登録の鎌倉時代の4基の板碑(石巻市鹿又)が堤防の嵩上げ及び拡幅工事(国土交通省 東北地方整備局 北上川下流河川事務所)により危機的状況です。板碑研究家の原位置説もあり(現段階では昭和期の堤防嵩上げ工事により数メートル北上川側に移設されたことが判明しています。2024年6月17日追記)、地域の歴史を語る貴重な歴史文化遺産の現地保存を願っています。ご助力をお願いいたします。
1986年発行の『わがまち河南の文化財』(河南町教育委員会)に永仁元年の板碑は図付で掲載されていることから、保護の手が及んでいないのは石巻市との合併(2005年 平成17年)後、文化財としての扱いが行政に継承されていないと考えられます。
概要(参考:COPILOT)
石巻市鹿又の堤防には、鎌倉時代の歴史を語る4基の供養塔があります。これらの板碑は自然堤防上に立っています。以下にそれぞれの板碑の概要をご紹介します。
1.中央碑(高さ2.7メートル)
年代: 永仁元年(1293年)。不動明王の梵字(カンマーン)を刻み、亡くなった人々の霊が極楽に往生することを祈願しています。
銘文「右志者為過去幽儀/往生極楽證大菩提也」の下中央に「永仁元年」。銘文はさらに土中に続くことから3mに及ぶこの地域で最も地上高の高い大型碑(同規模の大型板碑は鹿又町浦の光明寺境内にある。)。
佐藤雄一氏はこの碑の項目では「原位置を保っていると思われる」とする(『河南町の板碑』)。
2.左碑(高さ1.4メートル)
年代: 嘉元四年(1306年)。
中央碑と同じく不動明王(カンマーン)の梵字を刻み(左側剥落)、亡き父の霊が極楽に往生することを願っています。
銘文「右造立志趣者為慈父幽霊/往生極楽也 嘉元二二年二月十日 敬白」
3右碑(高さ1.0メートル)
年代: 永仁二年(1294年)。
金剛界大日如来(バン)の梵字を刻んでいます。中央碑の翌年に造立されたものです。
「右▬/大歳/永仁二 ■二月日/申午 /(證菩提)」
いずれの板碑も盛り土により本来の地上高(銘文下)に嵩上げされている。
銘文から左右の板碑は春の彼岸に立てられたようです。
そしてこの板碑の供物台も板碑(断碑)でした。洗ってみると見事に「正應(1293)六年四月五日」と達筆で刻んでありました。左碑の供物台も文字痕跡?のある粘板岩のブロックです。やはり、ここの下部一帯には板碑がさらに眠っている可能性があります。もしかすると、ここは、自然堤防の端から北上川を眺める場所にあった武士層の供養所跡であったのかもしれません。
佐藤雄一氏は後段において自然堤防上の板碑の例から原位置の板碑の可能性もありと考えています(『河南町の板碑』2015)。
これらの板碑の周囲には紀年銘の途中まで盛り土がなされ、大石が1個露出していますので祀った時になされたか近世以降に整備がされたことを反映している可能性も考えられます。川村孫兵衛による築堤工事がなされた地域なので基部はその際かもしれません。佐藤雄一氏は本板碑は「川除け土手」の範囲内に位置すると前掲書で述べています。
その場合は中近世の地域の歴史をも語るものと言えます。板碑が原位置の場合は板碑の基礎構造や骨蔵器があるばあいが多く(松島雄島などの例)、近世に「川除け大土手」に関連して整備された場合は大規模な構造物の存在が想定され、その解明には発掘調査が必要となります。特に移転の場合は「周知の埋蔵文化財」として事前の発掘調査は必須となります。
本板碑は不思議なことに、行政により文化財(埋蔵文化財包蔵地=遺跡もしくは有形文化財)として登録されていないため、危機的な状況にあります。現地保存がベストです。どうしても困難な場合は地域民に知られた「周知の埋蔵文化財」として適切な発掘調査の上で、できるだけ近くに移転が必要と考えます。
巨碑はじめ三基の石材の基部、特に2.7mの巨碑は深く土中に入っています(地上高の三分の一近いか)。地上部は傾いていて、もろく割れやすいので発掘から移転まで文化財の保護のみならず人身の保全に万全のサポートの必要が考えられます。
鹿又北東部の北上川沿岸では、自然堤防上に100m前後の間隔で板碑が分布することが分かってきました。北上川を望むやや小高い位置に屋敷地ごとに石製供養塔を立てた中世人の信仰が伺われます。今回の堤防工事では掘削が伴い、板碑の不時出土が懸念されます。
これらの板碑は北上川流域の歴史、特に記録の少ない鎌倉・南北朝時代の山内首藤氏の所領のありさまを伝える貴重な歴史文化遺産として、大切に保護、活用されるべきものです。埋蔵文化財もしくは有形文化財に登録の上、標柱、説明板による周知が有効です。石巻市の文化財行政は特に全国的に著名な板碑については極端に低水準です。今までの復興優先は当然として、これからの積極的な文化財保護・活用行政が望まれます。石巻市博物館が誕生したことは、その点でも大きな意義があると考えております。
↑ 図をクリックすると拡大してご覧になれます。
※1板碑の分布図は複数の研究者による調査、情報の共有による。逐次、文化財関係機関には報告をしている(2024.6.18)。
2.板碑の多くは耕作地などで出土した板碑を氏神、または神仏として宅地に祀った結果であり、所有者の許可を受けてご覧ください。
『旧北上川右岸鹿又地区堤防整備事業』(国土交通省 東北地方整備局 北上川下流河川事務所)
堤防工事に反対するものではなく、事前に教委・博物館との協議の中で両方活かす方法を検討してほしい。
一般的に、盛り土を含めて大規模工事が計画された場合には、事前に教委など文化財担当機関による分布・試掘調査などで文化財の有無、内容がチェックされ方策が検討される。その方が工事側でも計画的にスムーズに実施できるので、確か文化庁でも推奨している。この地区ではそのような施策が見られないのは残念である。
https://www.thr.mlit.go.jp/Bumon/J74201/homepage/_upload/doc/04_publication/wakuya/wakuya006_230227.pdf
(上記HPより)
www.thr.mlit.go.jp
◎豆人さんの関係ツイッター↓
それがどっこい。前掲『河南町の板碑』や先のブログさま(引用本当にごめんください……)によれば、鹿又堤防外の三基の板碑は、その奇跡的な確率をもって原位置から動かされていない可能性があるというのである。#今日のいしぶみ
— 豆人 (@_mamehito_) 2024年5月25日
tentijin8.hatenablog.com
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◆下記著者の佐藤弘夫先生は現地を見て「オーラを感じる」「この立派な板碑を後世に残すべし」と激励をいただきました。
(更新2024.6.19)
◎おすすめ本
激変する日本人の死生観: 人は死んだらどこへ行けばいいのか;第2巻
深刻な話題を軽妙かつ味わい深い語り口で、現地から語る「人が死んだらどこに行けばいいのか」シリーズ第二巻。随所でおすすめスポットを紹介するなどお出かけにも参考になる気配りがいい。一般の方にも広くお勧めしたい。
激変する日本人の死生観 佐藤弘夫(著/文) - 興山舎 | 版元ドットコム
「紹介(上記HPより)
私たちはいま「死後」のリアリティを共有できない時代を生きている。
日本思想史研究の第一人者が全国各地の霊場を踏査し、日本人の「他界観」の変化に各地の霊場がどのように対応してきたかが分かる、圧倒的ドキュメント。
佐藤教授独特の語り口で、日本列島に現前する霊場を一緒に旅し、生と死のありようを辿っている気持ちになります。
目次
第1部 死者はこの世に帰ってこられるか
遠野のデンデラ野/黄泉の洞窟/六道珍皇寺/江ノ島・龍ノ口/慈恩寺
第2部 浄土への信仰はなぜ必要だったか
八葉寺/ 當麻寺/熊野/骨寺/岩屋寺/文永寺
第3部 紫式部はなぜ地獄に堕ちたか
川原毛地獄/愛宕山/紫式部の墓/別府の地獄めぐり
第4部 失われた極楽浄土
弥谷寺/ムカサリ絵馬/回向院/黒石寺/立山と芦峅寺
著者プロフィール
佐藤弘夫 (サトウヒロオ) (著/文)
1953(昭和28)年、宮城県生まれ。東北大学大学院文学研究科博士前期課程修了。博士(文学)。盛岡大学助教授・東北大学教授などを経て、現在、東北大学名誉教授。専門は日本思想史。著書『人は死んだらどこへ行けばいいのか(第1巻)』(興山舎)、『アマテラスの変貌』(法藏館)、『霊場の思想』(吉川弘文館)、『死者のゆくえ』(岩田書院)、『ヒトガミ信仰の系譜』(岩田書院)、『死者の花嫁』(幻戯書房)、『日本人と神』(講談社)他。」
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「平安朝から鎌倉時代にかけて制作された阿弥陀来迎図・六道図・十界図などの浄土教美術の優品。これらの作品を、『往生要集』の思想や迎講・仏名会等の宗教行事と関連させ来迎芸術の真実に迫った名著。解説=山折哲雄・須藤弘敏」(AmazonHPより)来迎芸術【法蔵館文庫】 - 法藏館 おすすめ仏教書専門出版と書店(東本願寺前)-仏教の風410年
(増補:2024.6.1)
◎注目ニュース
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