震災八年、復興未だ成らず─牡鹿半島

合掌

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石巻市清水田浜
昨日、訪れた牡鹿半島の至るところに見られた風景。海が見えない。。

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石巻市小網倉浜

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石巻市谷川浜 八幡神社から 著名な永禄の板碑は行方不明。
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再建された石碑

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石巻市 前網浜 浜に人影なく高台で人に遇う。


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前網浜の信仰は生き続けておりました。


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寄磯浜(石巻市)は最も活気のある牡鹿半島の浜の一つであった。


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大原浜 ここも海は見えない。


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南北朝時代の一女性の願いを込めた「石塔」─南三陸町朝日館跡

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妙樹禅尼造立板碑3D画像(田中則和作成)
 本年もどうぞよろしくお願いいたします。改めて2011.3.11東日本大震災で失われた二万人の命の重さを肝に銘じるとともに、南三陸に生きた人々の証である豊かな南三陸の自然・歴史文化遺産を活かした復興まちづくりに寄与することを目指します。
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2013.1.30 志津川
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Googleアース2011.3.14 朝日館跡の位置と津波の被害
拙著『南三陸の山城と石塔』で紹介した約600年前の妙樹禅尼造立「石塔」について
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朝日館跡 2015

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朝日館跡 2015年
 拙著の表紙の背景になった銘文はこの「石塔」です。2013年、志津川の惨状の中で地元の方に教えていただき、その豊かな願文に感銘を受けました。南三陸町志津川下保呂毛に所在する朝日館跡は、志津川城とも呼ばれる南三陸の代表的な山城跡(標高75m)で、石塔はその最下段にあります(畑に隣接しているので見学の方は、畑を踏まないようにしてください)。

 朝日館跡は江戸時代の『仙台領古城書上』では「朝日城」と記され、城主は千葉大太夫季次とされています。発掘調査は実施されていませんが時期は概ね南北朝期から戦国期と考えられ、戦国期は葛西氏の独立性の強い重臣である本吉氏の居館とされています。東日本大地震津波は一帯にも甚大な被害を与え、対面にある大雄寺の江戸時代からの杉並木(町指定)も壊滅しましたが、館跡の東側最下段の平場(標高約27m)と民家と近くに立つこの石塔(板碑)は無事でした。ここは当時、志津川湾の入り江に近く、南北朝時代から領主の屋敷があったと考えられます。
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        (妙樹禅尼造立「石塔」3Dカラー画像 田中則和作成)
 この石塔(板碑)は、地上高90cmとさほど大きくなくひっそりと山裾に立っています。半ば土に埋もれていますが、小さな碑面にぎっしりと梵字(古代インドサンスクリット文字)で仏のシンボルである種子と地獄に落ちない聖なる言葉である光明真言、紀年、長文の願文が刻まれています。紀年銘は至徳二年(1385)八月十九日であり、南北朝時代の後半、室町幕府三代将軍足利義満のころです。このころの南三陸の様子を示す記録は残されていませんが、この石塔から妙樹禅尼という女性が「五障」という悟りを得られない障害を克服したいという自らの現世と来世の願いを込めて造立したことが明記されています。仏門に入り戒律(「菩薩戒」)を受けた一人の尼が、現代風に言えば「生前葬」の法要(銘文には石塔造立を含めて「逆修」と表現されています)を経て、その結願として「石塔」造立による祈願を豊かな願文で表しており、しかも、後で述べるように極めて禅宗僧の指導により造立されたと考えられる東北地方では極めて貴重な板碑です。
 石材は石巻産の井内石に近似していますが、あるいは近辺に類似した岩脈がある可能性があります。上部に大きく刻まれた種子イの表す仏は、地蔵菩薩もしくは伊舎那天ですが、ここでは妙樹禅尼が自らの願いを込めて造立した経緯なども考え併せ「延命地蔵」ではないかと考えています。
 線で隠された次の段の光明真言の一行目はオンアボギャベイロ、二行目はシャナウマカボダラ、三行目はマニハンドマジンバラ、四行目はハラバリタヤウーンタですが、字形には南三陸ならではの個性がみられます。

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妙樹禅尼造立「石塔」銘文3D画像(田中則和作成)
 線で区画された最下段に刻まれる願文は「菩薩戒弟子妙樹禅尼 涓取至徳二年八月十九日逆修善根造立一基石塔 以荘厳二世報地 伏願変五障身即到无垢受一生記頓証菩提」です。銘文の文字配列は紀年銘も含めて一つの文章として構成されている点が特徴的です。
書き下しは「菩薩戒の弟子妙樹禅尼、至徳二年八月十九日を涓取(けんしゅ)して善根を逆修す。一基の石塔を造立し、以て二世の報地を荘厳す。伏して願わくは、五障の身を変じ、即ち無垢に至り、一生の記を受け、頓(すみや)かに菩提を証せんことを。」としてみました。現代の歴史家が「板碑」と呼んでいるものを「石塔」と呼んでいたこともわかります。「石塔」は他の例からみて「石塔婆」、「石率都婆」の略で、もともとはお釈迦様の遺骨を納めた塔である「ストゥーパ」に由来しています。
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詳しく知りたい方のために
 この願文の中で「涓取」、「荘厳二世報地」、「无垢」(無垢)、「一生之記」の言葉は板碑としては希少な例です。ただし、「報地を荘厳」は、現在でも、禅宗の回向例文に頻出している言葉です。『諸回向清規』(永禄六年(1566)成立。明暦三年(一六五七)刊行)を基とした『江湖叢書 諸回向清規式(抄)』(禅文化研究所)は「現在の臨済宗の法式の典拠」ですが、「報地を荘厳」のフレーズ例を多数掲載するとともに、その註として「善因を修した果報により、自然に感得する仏土を厳浄するとともに、そのような仏土に到達するように願うこと。」と説明しています。本板碑例では「二世の報地を荘厳す」とあるので現世、来世ともにその境地を祈願していると思います。したがって「生前に仏事(葬儀)を行い、石塔を造立するという果報により感得する現世の仏土を荘厳し、併せて来世に往くべき仏土を荘厳する」ということになりましょうか。
 「受一生記」については、「受記」すなわち、「仏から修行者が未来に成仏するという予言を得ること」です。曹洞宗の太祖とされる第四祖の瑩山紹瑾(1268年- 1325年)が建立した永光寺などで使うために著された修行僧の規則である『瑩山清規』(永和二年1376年書写版が最古)に注目すべき用語があります。「亡者回向」の「在家平人回向」には、「(前略)奉為某甲 資助幽霊、荘厳報地。伏願身超浄域、業謝塵労、蓮開上品之華、仏授一生之記」とあります。妙樹造立板碑の場合は「受一生之記」とあり、受け手の立場で表現しています。なお、この「仏授一生之記」などのフレーズは、手本となった中国成立の『禅苑清規』(崇寧二年(1103)序刊)の「(前略) 伏願神超浄域業塵労、蓮開上品之花仏授一生之記」を継承している可能性があります。
 妙樹禅尼の逆修石塔造立を指導したのは、禅宗、中でも臨済宗僧の可能性が高いと考えています。禅宗の逆修石塔造立供養の有力者女性への普及という視点からみれば、建武五年(1338)、臨済宗松島円福寺において、藤原氏女が逆修「石塔婆」を造立して、「五障雲散して菩提を得る」ことを願った作善思想の流れが、至徳元年(1385)に至って、志津川の領主一族かと思われる女性の同様の作善につながったともいいうるのではないだろうか。そして妙樹禅尼の石塔造立は、関東地方の「禅尼による光明真言逆修」石塔造立の盛行とシンクロした石巻地方の天台浄土教の本尊種子を刻んだ同様の板碑造立の流れにおいて、そのことを踏襲した臨済宗勢力が松島・石巻・追波・志津川湾岸域の教線の中で、在地領主一族の女性を対象とした授戒を含めた独自の活動の結果ではなかったかと考えています。
(詳しくは筆者の田中則和が2015年に投稿した「妙樹禅尼の逆修「石塔」造立─南北朝期南三陸の時空(序論)」が2019年春には東北学院大学より刊行されると思いますのでご覧ください。ただし最新の見解ではありません。)

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志津川夕景 2015.12.30

南三陸町での連続講座案内(南三陸研究会・うみさと暮らしのラボ)
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www.m-kankou.jp


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2013.5.22 戸倉早朝 津波で破壊された中世から現代碑(基礎跡)

松島雄島・金剛舎利石塔─600年前の願い─大晦日に

貞和五(1349)年「一結徒衆」板碑
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宮城県松島町雄島に立つ高さ2.4mの南北朝時代の石塔(板碑 図は合成写真)。
全身コケだらけのため、気に留める人はほとんどいない。

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こちらは同じものを、色を除去した写真。釈迦如来のシンボル(梵字)が鮮やかに見える。

そして 実は願いの文がぎっちりと刻んであります。
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(画像処理写真)
簡単にいいますと
「お釈迦様の仏舎利である「金剛舎利」(お骨)の法会を毎日行い、浄土に行くことと、それぞれの家の繁栄を願ったあります。」
「金剛舎利」とは、現在も瑞巌寺(当時は円福寺)で所蔵する水晶製五輪塔に納められている「舎利」と考えられています。
その下に
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(合成ゆがみ修正写真)
お坊さんと法会参加者の名前がびっちりと刻んであります。
その数、なんと145人(『松島町史 資料編1)
「安藤太郎妻 尼妙善 真光妻 阿弥陀仏 孫六妻....」と女の人の名前が多いのです。
これらの人々は安藤氏など牡鹿半島の海の武士団、 だけでなく海の民と考えられています。
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                                                                                              (『松島町史 資料編1)
すごいでしょ!


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実は、背面にも、江戸時代の人が刻んだ文字が全面に刻まれています。


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松島の誇る歴史文化遺産 雄島(南北朝時代は「御島」)


では、本年はご愛読していただき誠に有難うございました。
よいお年をお迎えください。

南三陸町・新井田館跡調査現地説明会-2013.11.23-

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南三陸町新井田地区の津波で流出した家屋の基礎と新井田館跡(2013年11月23日)
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調査現地説明会の様子(公開については南三陸町教育委員会の許可を得ています)

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南三陸町新井田館の発掘について
 南三陸町の山城跡、新井田館跡(にいだたてあと)は2011年11月3月11日に発生した東日本大震災津波からの復興事業の一つである中央団地造成に伴い大規模な発掘調査が実施された。その結果は、それまでほとんど知られなかった南三陸の戦乱の室町時代を物語る重要な成果となった。調査成果は緻密な報告書にまとめられたが、その性格上、一般の方には難しいものであり、もっとわかりやすく語りたい。筆者が、このたび『南三陸の山城と石塔─東日本大震災後の調査でわかったこと』(河北新報出版センター 864円)を書いた目的の一つである。しかし、拙著はモノクロ主体の小さな本でありビジュアルの面ではわかりにくい。そこで、動画でお届けすることを考えた。まずは、以前、南三陸町教育委員会の許可を得て公開した現地説明会のビデオを再編集してお届けする(編集技術は超初心者でありお許し願いたい)。
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 新井田館の時代は15世紀、室町時代金閣寺を建てた三代将軍足利義満から四代の義持に移っていく時代で、応永七(一四〇〇)年には奥州探題として斯波氏(後の大崎氏)が任じられ、現在の大崎市付近に赴任してきたとされる時代である。しかし宮城県の沿岸部の様相は記録がなくほとんど不明で、山城全体をまるごと発掘調査した例は宮城県では極めて少ない。その結果、室町時代志津川では、領主が、山上に立てこもらざるを得ない、軍事的緊張の状況であったことがわかった。そして、志津川湾沿岸の航路・街道を見通し、内陸から街道の出入り口を抑える重要な位置に、東アジアの品々を入手しうる有力な武士一族が存在したことが明らかとなったのである。
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南三陸の山城と石塔 (河北選書)

南三陸の山城と石塔 (河北選書)

南三陸町の山城跡─新井田館の発掘と朝日館の縄張り

新井田館跡(志津川新井田)
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想像的復元説明図(『新井田館跡』(南三陸町教育委員会 2016)を下図に作成
田中則和 2018)
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(竪堀風の麓への通路)
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(上の写真を別角度から見たところ。切岸、段の調査風景)
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東日本大震災後の復興関連調査で2013年に新井田館跡はまるごと発掘され、消滅した。(現在の中央団地)
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その結果、大規模な土塁と空堀、切岸で防御された室町時代の居館型山城であることがわかった。
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グーグルアースで見る2014年3月の様子


朝日館跡(志津川下保呂毛)
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現存する南三陸最大の山城、朝日館跡(2016年 ドローン撮影 佐藤泰・針生芳知)

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縄張り調査の結果、広大な居住地を擁する中世の居館型山城であることがわかった。
(田中則和 2016)。
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中枢部の地表顕在遺構の解釈

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グーグルアースで見る2011年4月の様子

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城館の位置関係(グーグルアース 2016)
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グーグルアースで見る南三陸の主な城館

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(朝日館跡付近 2018.10)
現在、南三陸町は復興工事の真っ盛り、道もどんどん変わっています。お気を付けください。


詳しくは拙著をご覧いただけると幸いです。
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南三陸の山城と石塔 (河北選書)

南三陸の山城と石塔 (河北選書)


書評
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南北朝時代の千人仏の石塔─『南三陸の山城と石塔』の表紙から・南三陸の現在

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「安永三(1774)年に仙台藩に提出された『入谷村風土記御用書出』には「古碑」として「人おて山」が金の採掘で賑わっていた時に、遊女を誘い敷地内に入れたところ、山が沈み数百人の金堀りの人々が亡くなった。この石碑はその供養のために立てられたもので一字の梵字と貞治という年号が見えるとのことが書いてある。」(『南三陸の山城と石塔』より)
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立地(標高約90m 志津川湾を望む グーグルアース2011.4.6)
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拓本を張ったままで写真を反転させると、この石塔に刻みつけられたモノが見えてきます。
「地上高175㌢、幅74㌢、厚さ35㌢ある尖頭形の堂々とした石塔である。阿弥陀如来のシンボルであるキリークの梵字の下、中央に「貞治二年(1363)二月三日」、その左右に光明真言という「一切の罪業が除かれる」という神聖なる言葉が梵字で刻まれている。鎌倉時代の書籍『光明真言効能』には「もし、亡者の墓に向かって四十九反唱えれば、阿弥陀如来、その亡者を導き来て、必ず極楽浄土に往生せしめたまう也、もし又人有て、この真言を率都婆(そとば)に書きて、父母の墓に立てれば、その父母、無量業をふるも悪趣に落ちず、蓮花の上に化生」つまり、石塔に光明真言を書けば、阿弥陀如来の導きで極楽浄土に往生する意味のことが書いてあり、この石塔の阿弥陀如来と光明真言の組み合わせに合致する。(『南三陸の山城と石塔』)
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中世の石塔(板碑)とはこのようなものです(写真は歪み修正写真=オルソフォト)。
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なぜ、カモシカと出逢うような山中に南北朝時代の大きな石塔が立っているかが問題です。拙著をごらんください(答えはでていませんが手がかりはあります。)。
千人仏の板碑(入谷信倉) | 中世の板碑 | 歴史の標 | 南三陸町 VIRTUAL MUSEUM
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南三陸の山城と石塔 (河北選書)

南三陸の山城と石塔 (河北選書)



最近の南三陸 2018.10

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志津川城こと朝日館跡付近は復興工事真っ盛り(クルマ走行注意)

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南三陸町新庁舎

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志津川 さんさん商店街付近

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戸倉

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戸倉 魔王神社下の新しい団地から波伝谷方向を望む


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石巻市雄勝町

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石巻市十三浜大室団地


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女川町新庁舎


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月浦十三仏石塔(永禄六年)─安部下野守と「善男善女」

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石巻市月浦(つきのうら)・永禄六年(1563)十三仏石塔(上部)オルソフォト(歪み修正写真)


種子(仏を梵字で表したもの ※古代インドサンスクリットの表記に用いられた文字)で三十三回忌までの仏さまを表しています。
(上から)クルリンの文字は「イ字」(梵文のはじめに置く)
月輪(がちりん)の中に金剛界大日如来(十三回忌)、
虚空蔵菩薩(三十三回忌)、
胎蔵界大日如来(十七回忌)、薬師如来(七七日)、弥勒菩薩(六七日)、不動明王(初七日)
阿閦如来(七回忌)、観音菩薩(百か日)、地蔵菩薩(五七日)、釈迦如来(二七日)
阿弥陀如来(三回忌)、勢至菩薩(一周忌)、普賢菩薩(四七日)、文殊菩薩(三七日)

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全体を下から見上げる(オルソフォト)。
「「塔婆」は「石仏」であることを明記し、地域の有力武士とみられる安?部下野守による造塔の功徳によって、この地域の「善男善女」の「現世安樂」と「同一蓮台」すなわち、極楽往生を祈願している見事な造形の塔である。支倉常長像の近くに現在も立っているので、ぜひご覧いただきたい。」(『南三陸の山城と石塔』2018より)
牡鹿半島の「安部(阿部)」氏は中世の有力な土豪と考えられています。ご子孫でしょうか。私も牡鹿半島を歩いて安部さんのお世話になりました。

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現状


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(月浦 2017年)
支倉常長が遣欧使節として慶長18(1613)年にサン・ファン・バウティスタ号で出航したことで有名な月浦。奥州葛西氏初代清重が鎌倉から着岸(「着きの浦」)したという伝説もある(『宮城県の地名』)。
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(グーグルアース)

東日本大震災津波
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東日本大震災による被災地域の斜め写真を公開(国土地理院)
http://www.gsi.go.jp/common/000060885.pdf


↓詳しくは拙著をご覧ください。

南三陸の山城と石塔 (河北選書)

南三陸の山城と石塔 (河北選書)

宮城県考古学会-宮城県の考古学情報


◎注目
第482回 震災を経ても土地に生きる―南三陸町波伝谷、12年間の映像記録を通して | 国立民族学博物館 友の会