講座「南三陸の中世5 志津川湾を板碑・山城から探る」(予告)

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志津川 2013.4
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講座「南三陸の中世5 志津川.」─予告(田中則和)
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新井田館跡発掘調査現地説明会資料(南三陸町教育委員会) 2013.11.23
南三陸町で開催しております連続講座「南三陸の中世」(8回 主催:南三陸研究会、うみさと暮らしのラボ )は、いよいよ、2013年の新井田館跡(現在の中央団地)発掘を契機とした南三陸の中世の歴史探求の出発点である「志津川」に入ります。
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新井田館跡の発掘調査 2013.10

今回は、拙著『南三陸の山城と石塔』刊行以後の成果を盛り込み、埋もれていた先人たちが知恵と工夫をこらした痕跡、石塔や山城跡などの歴史文化遺産から千年前の平安時代から戦国時代の志津川湾域の歴史を探ります。
「復興まちづくり」の一助にこれらの歴史遺産が役立つことを願っております。

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志津川湾域の城館分布(『南三陸の山城と石塔』
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志津川湾の城館跡 Googleアース+田中則和2019.6
志津川湾というと「海」にばかり目が行きがちですが、山城の分布と内容から、戦国の時代の武士たちが、必死で守ろうとしたものが何かを探ります。
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千人仏板碑 田中則和撮影
そして、鎌倉・南北朝時代の記録は南三陸町にはありませんが、約350基もの板碑が、武士一族などの有力者の存在と活動を示しています。現在ではほとんど見えなくなった文字や加工の特徴を3Dなどの最新技法で探ります。
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※現在の会場は生涯学習センターです。
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荒島2013.6
宮城県本吉郡南三陸町志津川(しづがわ)が本章の舞台。2013年、大森というところにいて東日本大震災津波で鳥居を失った荒島の神社に参拝。
早朝の朝日に輝く海でウニ漁をしている風景にまぶしさと「復興」への意気込みを感じる。
そして、この地を歩いていると、案内していただいた年配の方は志津川郷土史家佐藤正助先生のお名前に懐かしく反応する。
それほど志津川を愛して歩き回った先生のデビュー作は美しい志津川湾の内湾の古称を題名とした『旭ヶ浦物語』(1975年)。
きっかけは震災復興に伴い全国の支援を受けて全速力で発掘した新井田館跡の発掘。現在は中央団地となっている。その発掘成果と埋もれた山城の跡と石塔を結び付けて志津川の歴史を明らかにすれば、新しい「まちづくり」にも寄与できるはずだとの思いである。」
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朝日館跡 2016.3 ドローン撮影(佐藤泰・針生芳知)
志津川という地名の由来は、「古館朝日城」の下に清水が涌き出るところがあることにちなんでつけられた「清水川」にあると伝えられていることが安永三(1774)年に仙台藩が各村々に書き出させた『志津川村御用書出』に記されている。
 朝日(旭)館は志津川城とも呼ばれ、その跡は、下保呂毛にある。「ほろけ」というのはアイヌ語由来説もある名前だが、地元の方は「ほろっけ」とさらにリズミカルに呼ぶ。志津川名刹(めいさつ)大雄寺(だいおうじ)付近から見るその「朝日館跡」)は、一見、二つの小山にしか見えない。江戸時代の諸記録には奥州「平泉藤原秀衡の四男、本吉四郎冠者の居館」と伝えられること、その後、葛西宗家の流れである本吉氏の居館となったと紹介されている。朝日館が藤原高衡の居館というのは伝説だが、12世紀の末期に藤原高衡が本吉荘管理のトップであったことは確かである。郷土史家、紫桃正隆氏が「当地方随一、究めるほどに新しい驚きが次々と出現する」と称賛した山城跡を探ってみよう。」
(以上、田中則和『南三陸の山城と石塔』2018より)
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朝日館跡縄張図 田中則和作成
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2013.4 さんさん商店街仮設にて
皆様のお越しをお待ちしております。
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「南三陸の中世4 戸倉」表紙 田中則和
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「南三陸の中世3 雄勝・女川の中・近世」表紙 田中則和
南三陸の山城と石塔 (河北選書)

南三陸の山城と石塔 (河北選書)

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軌跡

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志津川2018.10 さんさん商店街付近
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志津川 東日本大震災発生から千日 2013.12.4
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2013.12.01 さんさん商店街に東北楽天イーグルス登場
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志津川 2012.8
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キラキラうに丼 2013.5
キラキラうに丼の季節です!
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◎おすすめ本

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谷口宏充 『東日本大震災「災害遺産」に学ぶ』海文堂出版 2019
東日本大震災“災害遺産”に学ぶ―来たるべき大地震で同じ過ちを繰り返さないために

釣石神社─被災神楽面復活の舞(石巻市北上町)

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「平成」最大の災害である「東日本大震災」は、福島原発をはじめとして「令和」に続くであろう。
石巻市北上町の釣石神社では、被災した本吉法印神楽の面27面の復元がが完成し、28日お披露目となったことは喜ばしい。

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復元された本吉法印神楽の面
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2019.4.28
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初矢 新人の舞
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大勢の善男善女で賑わう「前日祭」
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一帯は復興工事中
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沿岸部の現状(南三陸町)

tentijin8.hatenablog.com
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お勧め本

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季刊考古学147号 板碑からみた神仏
専門的な本であるが板碑こと石の仏塔研究の最前線。
板碑からみた神仏 (季刊考古学)

板碑からみた神仏 (季刊考古学)

yuzankaku.co.jp
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小生が製作した松島雄島の「金剛舎利」板碑や拙文も掲載されております。
見事な釈迦如来のマーク「バク」は南北朝時代の仏教のレベルと石工の技術を示しています。
実は金剛舎利法会の由来と145名の参加者の名前が刻まれている高さ2.8mの巨碑。
南三陸の山城と石塔 (河北選書)

南三陸の山城と石塔 (河北選書)


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「南三陸の中世」講座 2019.4.19表紙
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お知らせ(付記2019.5.1「令和元年」)
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東北学院大学中世史研究会の会誌『六軒丁中世史研究』が四年ぶりに再開され17号が刊行されました。
東日本大震災後、三陸南部の中世を考古学的に探った最初の拙文が掲載されております。よかったらご覧ください。問い合わせ先は下記ですが、5月中旬以降には事務局対応が可能かと思われます。
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震災八年、復興未だ成らず─牡鹿半島

合掌

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石巻市清水田浜
昨日、訪れた牡鹿半島の至るところに見られた風景。海が見えない。。

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石巻市小網倉浜

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石巻市谷川浜 八幡神社から 著名な永禄の板碑は行方不明。
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再建された石碑

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石巻市 前網浜 浜に人影なく高台で人に遇う。


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前網浜の信仰は生き続けておりました。


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寄磯浜(石巻市)は最も活気のある牡鹿半島の浜の一つであった。


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大原浜 ここも海は見えない。


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南北朝時代の一女性の願いを込めた「石塔」─南三陸町朝日館跡

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妙樹禅尼造立板碑3D画像(田中則和作成)
 本年もどうぞよろしくお願いいたします。改めて2011.3.11東日本大震災で失われた二万人の命の重さを肝に銘じるとともに、南三陸に生きた人々の証である豊かな南三陸の自然・歴史文化遺産を活かした復興まちづくりに寄与することを目指します。
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2013.1.30 志津川
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Googleアース2011.3.14 朝日館跡の位置と津波の被害
拙著『南三陸の山城と石塔』で紹介した約600年前の妙樹禅尼造立「石塔」について
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朝日館跡 2015

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朝日館跡 2015年
 拙著の表紙の背景になった銘文はこの「石塔」です。2013年、志津川の惨状の中で地元の方に教えていただき、その豊かな願文に感銘を受けました。南三陸町志津川下保呂毛に所在する朝日館跡は、志津川城とも呼ばれる南三陸の代表的な山城跡(標高75m)で、石塔はその最下段にあります(畑に隣接しているので見学の方は、畑を踏まないようにしてください)。

 朝日館跡は江戸時代の『仙台領古城書上』では「朝日城」と記され、城主は千葉大太夫季次とされています。発掘調査は実施されていませんが時期は概ね南北朝期から戦国期と考えられ、戦国期は葛西氏の独立性の強い重臣である本吉氏の居館とされています。東日本大地震津波は一帯にも甚大な被害を与え、対面にある大雄寺の江戸時代からの杉並木(町指定)も壊滅しましたが、館跡の東側最下段の平場(標高約27m)と民家と近くに立つこの石塔(板碑)は無事でした。ここは当時、志津川湾の入り江に近く、南北朝時代から領主の屋敷があったと考えられます。
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        (妙樹禅尼造立「石塔」3Dカラー画像 田中則和作成)
 この石塔(板碑)は、地上高90cmとさほど大きくなくひっそりと山裾に立っています。半ば土に埋もれていますが、小さな碑面にぎっしりと梵字(古代インドサンスクリット文字)で仏のシンボルである種子と地獄に落ちない聖なる言葉である光明真言、紀年、長文の願文が刻まれています。紀年銘は至徳二年(1385)八月十九日であり、南北朝時代の後半、室町幕府三代将軍足利義満のころです。このころの南三陸の様子を示す記録は残されていませんが、この石塔から妙樹禅尼という女性が「五障」という悟りを得られない障害を克服したいという自らの現世と来世の願いを込めて造立したことが明記されています。仏門に入り戒律(「菩薩戒」)を受けた一人の尼が、現代風に言えば「生前葬」の法要(銘文には石塔造立を含めて「逆修」と表現されています)を経て、その結願として「石塔」造立による祈願を豊かな願文で表しており、しかも、後で述べるように極めて禅宗僧の指導により造立されたと考えられる東北地方では極めて貴重な板碑です。
 石材は石巻産の井内石に近似していますが、あるいは近辺に類似した岩脈がある可能性があります。上部に大きく刻まれた種子イの表す仏は、地蔵菩薩もしくは伊舎那天ですが、ここでは妙樹禅尼が自らの願いを込めて造立した経緯なども考え併せ「延命地蔵」ではないかと考えています。
 線で隠された次の段の光明真言の一行目はオンアボギャベイロ、二行目はシャナウマカボダラ、三行目はマニハンドマジンバラ、四行目はハラバリタヤウーンタですが、字形には南三陸ならではの個性がみられます。

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妙樹禅尼造立「石塔」銘文3D画像(田中則和作成)
 線で区画された最下段に刻まれる願文は「菩薩戒弟子妙樹禅尼 涓取至徳二年八月十九日逆修善根造立一基石塔 以荘厳二世報地 伏願変五障身即到无垢受一生記頓証菩提」です。銘文の文字配列は紀年銘も含めて一つの文章として構成されている点が特徴的です。
書き下しは「菩薩戒の弟子妙樹禅尼、至徳二年八月十九日を涓取(けんしゅ)して善根を逆修す。一基の石塔を造立し、以て二世の報地を荘厳す。伏して願わくは、五障の身を変じ、即ち無垢に至り、一生の記を受け、頓(すみや)かに菩提を証せんことを。」としてみました。現代の歴史家が「板碑」と呼んでいるものを「石塔」と呼んでいたこともわかります。「石塔」は他の例からみて「石塔婆」、「石率都婆」の略で、もともとはお釈迦様の遺骨を納めた塔である「ストゥーパ」に由来しています。
南三陸の山城と石塔:河北仙販SHOP - 「河北新報出版センターの本」や「かほピョングッズ」のオンラインショップ -


詳しく知りたい方のために
 この願文の中で「涓取」、「荘厳二世報地」、「无垢」(無垢)、「一生之記」の言葉は板碑としては希少な例です。ただし、「報地を荘厳」は、現在でも、禅宗の回向例文に頻出している言葉です。『諸回向清規』(永禄六年(1566)成立。明暦三年(一六五七)刊行)を基とした『江湖叢書 諸回向清規式(抄)』(禅文化研究所)は「現在の臨済宗の法式の典拠」ですが、「報地を荘厳」のフレーズ例を多数掲載するとともに、その註として「善因を修した果報により、自然に感得する仏土を厳浄するとともに、そのような仏土に到達するように願うこと。」と説明しています。本板碑例では「二世の報地を荘厳す」とあるので現世、来世ともにその境地を祈願していると思います。したがって「生前に仏事(葬儀)を行い、石塔を造立するという果報により感得する現世の仏土を荘厳し、併せて来世に往くべき仏土を荘厳する」ということになりましょうか。
 「受一生記」については、「受記」すなわち、「仏から修行者が未来に成仏するという予言を得ること」です。曹洞宗の太祖とされる第四祖の瑩山紹瑾(1268年- 1325年)が建立した永光寺などで使うために著された修行僧の規則である『瑩山清規』(永和二年1376年書写版が最古)に注目すべき用語があります。「亡者回向」の「在家平人回向」には、「(前略)奉為某甲 資助幽霊、荘厳報地。伏願身超浄域、業謝塵労、蓮開上品之華、仏授一生之記」とあります。妙樹造立板碑の場合は「受一生之記」とあり、受け手の立場で表現しています。なお、この「仏授一生之記」などのフレーズは、手本となった中国成立の『禅苑清規』(崇寧二年(1103)序刊)の「(前略) 伏願神超浄域業塵労、蓮開上品之花仏授一生之記」を継承している可能性があります。
 妙樹禅尼の逆修石塔造立を指導したのは、禅宗、中でも臨済宗僧の可能性が高いと考えています。禅宗の逆修石塔造立供養の有力者女性への普及という視点からみれば、建武五年(1338)、臨済宗松島円福寺において、藤原氏女が逆修「石塔婆」を造立して、「五障雲散して菩提を得る」ことを願った作善思想の流れが、至徳元年(1385)に至って、志津川の領主一族かと思われる女性の同様の作善につながったともいいうるのではないだろうか。そして妙樹禅尼の石塔造立は、関東地方の「禅尼による光明真言逆修」石塔造立の盛行とシンクロした石巻地方の天台浄土教の本尊種子を刻んだ同様の板碑造立の流れにおいて、そのことを踏襲した臨済宗勢力が松島・石巻・追波・志津川湾岸域の教線の中で、在地領主一族の女性を対象とした授戒を含めた独自の活動の結果ではなかったかと考えています。
(詳しくは筆者の田中則和が2015年に投稿した「妙樹禅尼の逆修「石塔」造立─南北朝期南三陸の時空(序論)」が2019年春には東北学院大学より刊行されると思いますのでご覧ください。ただし最新の見解ではありません。)

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志津川夕景 2015.12.30

南三陸町での連続講座案内(南三陸研究会・うみさと暮らしのラボ)
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2013.5.22 戸倉早朝 津波で破壊された中世から現代碑(基礎跡)

松島雄島・金剛舎利石塔─600年前の願い─大晦日に

貞和五(1349)年「一結徒衆」板碑
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宮城県松島町雄島に立つ高さ2.4mの南北朝時代の石塔(板碑 図は合成写真)。
全身コケだらけのため、気に留める人はほとんどいない。

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こちらは同じものを、色を除去した写真。釈迦如来のシンボル(梵字)が鮮やかに見える。

そして 実は願いの文がぎっちりと刻んであります。
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(画像処理写真)
簡単にいいますと
「お釈迦様の仏舎利である「金剛舎利」(お骨)の法会を毎日行い、浄土に行くことと、それぞれの家の繁栄を願ったあります。」
「金剛舎利」とは、現在も瑞巌寺(当時は円福寺)で所蔵する水晶製五輪塔に納められている「舎利」と考えられています。
その下に
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(合成ゆがみ修正写真)
お坊さんと法会参加者の名前がびっちりと刻んであります。
その数、なんと145人(『松島町史 資料編1)
「安藤太郎妻 尼妙善 真光妻 阿弥陀仏 孫六妻....」と女の人の名前が多いのです。
これらの人々は安藤氏など牡鹿半島の海の武士団、 だけでなく海の民と考えられています。
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                                                                                              (『松島町史 資料編1)
すごいでしょ!


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実は、背面にも、江戸時代の人が刻んだ文字が全面に刻まれています。


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松島の誇る歴史文化遺産 雄島(南北朝時代は「御島」)


では、本年はご愛読していただき誠に有難うございました。
よいお年をお迎えください。

南三陸町・新井田館跡調査現地説明会-2013.11.23-

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南三陸町新井田地区の津波で流出した家屋の基礎と新井田館跡(2013年11月23日)
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調査現地説明会の様子(公開については南三陸町教育委員会の許可を得ています)

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南三陸町新井田館の発掘について
 南三陸町の山城跡、新井田館跡(にいだたてあと)は2011年11月3月11日に発生した東日本大震災津波からの復興事業の一つである中央団地造成に伴い大規模な発掘調査が実施された。その結果は、それまでほとんど知られなかった南三陸の戦乱の室町時代を物語る重要な成果となった。調査成果は緻密な報告書にまとめられたが、その性格上、一般の方には難しいものであり、もっとわかりやすく語りたい。筆者が、このたび『南三陸の山城と石塔─東日本大震災後の調査でわかったこと』(河北新報出版センター 864円)を書いた目的の一つである。しかし、拙著はモノクロ主体の小さな本でありビジュアルの面ではわかりにくい。そこで、動画でお届けすることを考えた。まずは、以前、南三陸町教育委員会の許可を得て公開した現地説明会のビデオを再編集してお届けする(編集技術は超初心者でありお許し願いたい)。
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 新井田館の時代は15世紀、室町時代金閣寺を建てた三代将軍足利義満から四代の義持に移っていく時代で、応永七(一四〇〇)年には奥州探題として斯波氏(後の大崎氏)が任じられ、現在の大崎市付近に赴任してきたとされる時代である。しかし宮城県の沿岸部の様相は記録がなくほとんど不明で、山城全体をまるごと発掘調査した例は宮城県では極めて少ない。その結果、室町時代志津川では、領主が、山上に立てこもらざるを得ない、軍事的緊張の状況であったことがわかった。そして、志津川湾沿岸の航路・街道を見通し、内陸から街道の出入り口を抑える重要な位置に、東アジアの品々を入手しうる有力な武士一族が存在したことが明らかとなったのである。
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南三陸の山城と石塔 (河北選書)

南三陸の山城と石塔 (河北選書)