南三陸町で開催しております連続講座「南三陸の中世」(8回 主催:南三陸研究会、うみさと暮らしのラボ )は、いよいよ、2013年の新井田館跡(現在の中央団地)発掘を契機とした南三陸の中世の歴史探求の出発点である「志津川」に入ります。
今回は、拙著『南三陸の山城と石塔』刊行以後の成果を盛り込み、埋もれていた先人たちが知恵と工夫をこらした痕跡、石塔や山城跡などの歴史文化遺産から千年前の平安時代から戦国時代の志津川湾域の歴史を探ります。
「復興まちづくり」の一助にこれらの歴史遺産が役立つことを願っております。志津川湾というと「海」にばかり目が行きがちですが、山城の分布と内容から、戦国の時代の武士たちが、必死で守ろうとしたものが何かを探ります。そして、鎌倉・南北朝時代の記録は南三陸町にはありませんが、約350基もの板碑が、武士一族などの有力者の存在と活動を示しています。現在ではほとんど見えなくなった文字や加工の特徴を3Dなどの最新技法で探ります。
※現在の会場は生涯学習センターです。
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「宮城県本吉郡南三陸町志津川(しづがわ)が本章の舞台。2013年、大森というところにいて東日本大震災の津波で鳥居を失った荒島の神社に参拝。
早朝の朝日に輝く海でウニ漁をしている風景にまぶしさと「復興」への意気込みを感じる。
そして、この地を歩いていると、案内していただいた年配の方は志津川の郷土史家佐藤正助先生のお名前に懐かしく反応する。
それほど志津川を愛して歩き回った先生のデビュー作は美しい志津川湾の内湾の古称を題名とした『旭ヶ浦物語』(1975年)。
きっかけは震災復興に伴い全国の支援を受けて全速力で発掘した新井田館跡の発掘。現在は中央団地となっている。その発掘成果と埋もれた山城の跡と石塔を結び付けて志津川の歴史を明らかにすれば、新しい「まちづくり」にも寄与できるはずだとの思いである。」「志津川という地名の由来は、「古館朝日城」の下に清水が涌き出るところがあることにちなんでつけられた「清水川」にあると伝えられていることが安永三(1774)年に仙台藩が各村々に書き出させた『志津川村御用書出』に記されている。
朝日(旭)館は志津川城とも呼ばれ、その跡は、下保呂毛にある。「ほろけ」というのはアイヌ語由来説もある名前だが、地元の方は「ほろっけ」とさらにリズミカルに呼ぶ。志津川の名刹(めいさつ)大雄寺(だいおうじ)付近から見るその「朝日館跡」)は、一見、二つの小山にしか見えない。江戸時代の諸記録には奥州「平泉藤原秀衡の四男、本吉四郎冠者の居館」と伝えられること、その後、葛西宗家の流れである本吉氏の居館となったと紹介されている。朝日館が藤原高衡の居館というのは伝説だが、12世紀の末期に藤原高衡が本吉荘管理のトップであったことは確かである。郷土史家、紫桃正隆氏が「当地方随一、究めるほどに新しい驚きが次々と出現する」と称賛した山城跡を探ってみよう。」
(以上、田中則和『南三陸の山城と石塔』2018より)www.google.co.jp
皆様のお越しをお待ちしております。
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