震災, 歴史文化遺産 の検索結果:

戦争の惨禍と自民党の裏金作りと物価高どブッダの2023年─東北の片隅から

…面・龍谷院 東日本大震災慰霊碑 2023.12個人的には東日本大震災被災地の歴史文化遺産を今年も訪ね歩いたが、人の住めなくなった悲哀を実感する人々が年々少なくなっていくのは残念。 石巻市雄勝町・天雄寺 2023年12月哀悼 今年も偉大な人々がお亡くなりになった。 mainichi.jp 個人的にはミスター想像力というべき大江健三郎氏や見事な生きざまの坂本龍一氏。 青土社 ||ユリイカ:ユリイカ2023年7月臨時増刊号 総特集=大江健三郎 ユリイカ2023年7月臨時増刊号 総特…

南三陸研究会「三陸の中世」(2023.6.4)に寄せて

…城と石塔: 東日本大震災後の調査でわかったこと Kindle版カラー新版 南三陸の山城と石塔: 東日本大震災後の調査でわかったこと南三陸研究会「三陸の中世」2023.6.4(2時5時 会場:南三陸町生涯学習センター)に七海雅人先生(中世史 東北学院大教授)お話しを依頼されました。予め感想を述べさせていただきます。 2013年の東日本大震災復興工事に伴う新井田館跡(現在の中央団地)の発掘調査を契機に南三陸町をはじめとする沿岸部の豊饒な歴史文化遺産に惹かれて10年余歩き回りました…

北上川自然堤防の板碑(石巻市鹿又)─鎌倉時代の地域史を語る三基の供養塔

北上川自然堤防の板碑 永仁元年(1292) 不動明王の梵字カンマーン(石巻市鹿又)北上川自然堤防の板碑 中央碑 永仁元年(1292) 高さ2.7m (石巻市鹿又)石巻市鹿又土手前にある「北上川自然堤防の板碑」へ。 りっぱな鎌倉時代の板碑であり、現在もお祀りされているようである。文化財としては登録や指定はされていないことに驚く。 『河南町の板碑』(2015年)をまとめられた佐藤雄一先生は自然堤防の板碑の例をあげ、注目すべき板碑として原位置の可能性ありとする。 北上川自然堤防の板…

「石巻の板碑」展(石巻市博物館)に寄せて─武士とお坊さんと石工のデザイン力

東日本大震災の津波で被災した文化センターを継承する施設で2021年11月に新たに開館した石巻市博物館で 「石巻の板碑-調査の記録をたどる-」と題した企画展が開かれている。 「石巻の板碑」展 石巻市博物館 2023板碑は鎌倉・南北朝・室町時代の供養塔。石巻市は全国有数の集中地である。その石巻市博物館の企画展は26日まで。 「石巻の板碑」展 石巻市博物館 2023企画展のポスターとなったガネーシャのようなデザインは梵字を組み合わせて五輪塔をえがいたもの。凄いデザイン力だ。 「石巻…

雄勝の今─「海岸線の美術館」と硯の「御留山」

…景を活かした東日本大震災復興のまちづくりができなかったかと思う。 webronza.asahi.com note.com 衝撃であったのが雄勝硯の「御留山」が道路になっていたこと。 雄勝町 お留山が道路になっていた。2022年11月お留山 説明板 2017年お留山の麓 2017年2017年に見た現地に立つ雄勝町教育委員会・文化財保護委員会の説明板には「応永(1394)以来の銘硯」、「伊達藩」が保護し一般の採掘を許さなかった「御留山」と説明してあった。 ネットを検索してみると道…

『カラー新版 南三陸の山城と石塔』━東日本大震災からの復興とともに

…年5月早朝 東日本大震災発生から10年が近づいてきました。 甚大な被害を受けた南三陸(三陸南部 気仙沼市本吉町~松島)。 わたしはは2013年より、雄大な自然にくるまれた豊かな歴史文化遺産を復興に励む人々と交流しつつ探り続けています。 このたび、電子書籍『カラー新版 南三陸の山城と石塔─東日本大震災後の調査でわかったこと』を刊行いたしました。 拙著を紹介する形で、「海」のイメージが濃い三陸の南部について、リアスの海にせり出した山と小さな里に残された山城と石塔(板碑)などの歴史…

大津波と歴史文化遺産

東日本大震災発生からまもなく9年 復興未だ成らず 合掌牡鹿萩浜付近 2011.6 2012.3.17 南三陸町 戸倉神社 2012.5.9 雄勝法印神楽 羽坂 2013.1.10 志津川 「さかなのみうら」付近 2013.6 南三陸町 荒島付近(朝5時過ぎ) 新井田館跡現地説明会資料(南三陸町教育委員会)2013.11.23 新井田館跡現地説明会 2013.12 1 楽天参上 さんさん商店街(仮設) 2013.12.4 志津川 大津波千日目新井田館跡 2013.12.4 (現…

南三陸の中世8「南三陸の歴史文化遺産」(予告)

… 上の写真は東日本大震災の大津波で野と化した浄福寺の麓一帯の光景です。 浄福寺は平泉の藤原清衡の子、亘理十郎清綱の娘、乙和姫(福島市飯坂の大鳥城主佐藤元治夫人)が平泉滅亡後に尼となり、 ここに眠っていると伝えられるお寺です。現在もその五輪塔が大事にされております。 そして、ここから北方約1.5kmにある浄勝寺(津谷)には、乙和姫の子とされる佐藤継信・忠信兄弟の墓塔と伝えられる大きな五輪塔があります。 佐藤継信・忠信兄弟はあの有名な源義経の家来です。 写真の右下が、刻まれた梵字…

講座「南三陸の中世5 志津川湾を板碑・山城から探る」(予告)

…ところにいて東日本大震災の津波で鳥居を失った荒島の神社に参拝。 早朝の朝日に輝く海でウニ漁をしている風景にまぶしさと「復興」への意気込みを感じる。 そして、この地を歩いていると、案内していただいた年配の方は志津川の郷土史家佐藤正助先生のお名前に懐かしく反応する。 それほど志津川を愛して歩き回った先生のデビュー作は美しい志津川湾の内湾の古称を題名とした『旭ヶ浦物語』(1975年)。 きっかけは震災復興に伴い全国の支援を受けて全速力で発掘した新井田館跡の発掘。現在は中央団地となっ…

南北朝時代の一女性の願いを込めた「石塔」─南三陸町朝日館跡

…1.3.11東日本大震災で失われた二万人の命の重さを肝に銘じるとともに、南三陸に生きた人々の証である豊かな南三陸の自然・歴史文化遺産を活かした復興まちづくりに寄与することを目指します。2013.1.30 志津川Googleアース2011.3.14 朝日館跡の位置と津波の被害拙著『南三陸の山城と石塔』で紹介した約600年前の妙樹禅尼造立「石塔」について 朝日館跡 2015朝日館跡 2015年 拙著の表紙の背景になった銘文はこの「石塔」です。2013年、志津川の惨状の中で地元の方…

「学芸員を一掃」山本地方創生相失言反響集─ミュージアム・地域・観光・政治

…りは、このようです。震災復興と地域再生に向けてがんばっています。 ↓仙台・宮城ミュージアムアライアンス 「てくてく春のミュージアム散歩」など www.smma.jp 東日本大震災とミュージアム・SMMA とりわけ、震災文化財レスキューと復興支援に懸命に取り組んだ学芸員たちを忘れてはならないと思います。彼らは真の「地方創生」の一員だと思います。 tentijin8.hatenablog.com 学芸員は、東北では最も就職率の良いといわれる東北学院大学ではこのように育てられていま…

 津波で不明のサケ供養碑発見の喜びとその後の疑問─気仙沼市小泉

気仙沼市で震災の津波により行方不明になっていた「魚魂碑」(鮭供養碑)が発見された。 傷だらけながら「魚魂碑」の文字が金色に輝いているよう。 大津波を乗り越え、懸命に復興を歩む人々の前に出現した「震災の証」。 (鯨供養碑 延享三年1746 南三陸町) いにしえから (魚貝類供養碑 石巻市釜谷)現代にいたるまで日本列島の人々は自然の恵みの命をいただいている感謝の念を不朽の形で表現してきました。 わたくしも宮城県の沿岸各地で江戸時代から現代に続くいくつもの魚貝の供養碑を見てまいりま…

謹賀新年─荒天の時代と歴史遺産

…n志津川) 東日本大震災をはじめ各地の復興は地元の方を中心としたネットワークにより着実に進んでいると実感できたことは何よりです。 しかし、世の中は、大地動乱、「荒天の時代」、「戦争の足音」、大変な時代に入ってきたようです。 小生も近年は腰痛など加齢症状に苦しんでおりますが、本年は、めげずに、それなりに新たな境地を目指します。 自らの履歴を活かして震災の復興に微力ながら携わっていきたいと思います。ご支援いただければ幸いです。 ・評判の良かった記事 tentijin8.haten…

「震災復興に文化財の活用を」に寄せて

…たい。小生の持論も「震災復興まちづくりに歴史文化遺産の活用を」です。 地域の各種の文化財(国宝だけでなく、民俗芸能、遺跡や石塔などなど)を歴史文化遺産と捉えれば、「よく生きる」「共に生きる」上で、現代を生きる我々に大いに役立つ「資産」と考えるからです。 高橋氏の持論の後半で述べられているようにこの構想の実現には文化財担当正職員の配置を前提として地域の人々を中心としたボランティアの育成がないとしっかりとした文化財の保全と活用の実現は難しいと考えます。 以下、ご本人から原文をいた…

高田城跡と森の社の今+気仙地域の魅力を語るⅡ─陸前高田市

(仮市役所側から中世の中心部とみられる八幡館跡の森を望む) 『仙台領古城書上』に「気仙之旗頭」千葉安房守広綱の居城と記された高田城(東館城)を訪ねる。 高田町の、おあたごさん、愛宕神社への階段 南三陸町のおあたごさん、愛宕神社(将軍地蔵さまを祀る)は新井田館に添って高台にあったが、同じく高台移転で本来の場所を失った。やむを得ないことだが再び見守ってほしいものである。 tentijin8.hatenablog.com しかし、道は、北の峰に上っていく。。 高台移転調査に伴って発…

志津川城(朝日館)を「復興の城」に─南三陸町

…地。 城下は東日本大震災津波により甚大な被害を受けた。復旧・復興は、他地区より遅れているのではないかと感じた。 (志津川保呂毛付近の津波の浸水域『東日本大震災津波詳細地図〈上巻)』古今書院より) 志津川湾方向から見た南三陸の雄、本吉氏の居城と伝える志津川城跡(朝日館・旭館)の威容。 本吉氏は戦国時代、東北有数の名族、葛西氏の独立性の強い重臣とされる。 南三陸の戦国の歴史を秘めて聳える。 朝日館跡(志津川下保呂毛) | 戦国期の館跡 | 歴史の標 | 南三陸町 VIRTUAL …

古代壁画─合戦原遺跡横穴墓1300年前の線刻画現地説明会(山元町)とその後

…発掘調査は、東日本大震災に伴う公営住宅建設のためもので、公営住宅建設が当然、最優先です。そのうえで、もし、壁画横穴の一画、1300年前の地域のリーダーの奥津城を残して、公営住宅建設が成り立つのであれば、未来の子供たちに震災の復興の歴史と貴重な先人の歴史文化遺産の両方を残し、活用していくことができると思います。 (◎壁画保存の検討の方策としては、一般的には①現状保存→②切り取り保存→③剥ぎ取り保存などがあります。今回は専門家の評価がきわめて高い場合ので①がベストですが、事業の目…

古代国家形成期の実像を栗原市入の沢遺跡から解明と発信を+高尾山古墳保存・波伝谷に生きる人びと

…土交通省は、東日本大震災の翌年の2012年に「歴史・文化資産を活かした復興まちづくりに関する基本的考え方」を作成し推進している。このような経緯からすれば、入の沢遺跡を保存・活用して古代国家形成期の実像を栗原から解明、発信していくことは、2008年の岩手・宮城内陸地震など幾多の災害を克服しながら、まちづくりを進める栗原市の活性化に寄与するものと考える。 道路建設と遺跡保存両立の英断を国土交通省に期待したい。」●日本考古学協会による要望書提出など最新の情報に基づく記事は下記をご覧…

「かわうち今昔物語」・東北大学国際祭りと危機の埋蔵歴史文化遺産

…。 (仮装のネパール震災救援募金) ネバール大地震の募金をして帰りました。 ↓国際祭り終了時間不明 本日まだまだ続く感じです。 第30回東北大学国際祭り(5/24開催) | イベント | 東北大学 -TOHOKU UNIVERSITY- ↓二の丸跡の発掘調査成果もこんな感じで紹介してほしいものだ。 伊達政宗が築いた仙台城 仙台市文化財課 危機の埋蔵歴史文化遺産 【アジア流域文化研究所公開シンポジウム】古代倭国北縁の軋轢と交流 ―栗原市入の沢遺跡で何が起きたか― 4世紀の倭国の…

宮城県考古学会─復興関係調査で拓かれた地域の歴史1古代国家形成期の地域社会・山元町

…から−」 開催要項 震災以降かつてない規模ですすめられている復興関係調査の進展により、地域の歴史もより明確に描き出すことが可能となってきています。 これらの成果は、地域力につながる重要な資源であり、今後の復興・再生を考えていく上でも、被災地の歴史を、新たな視点でより豊かに描き出していく試みこそが、今後必要となるものを思われます。 こうしたことから、本年度は調査成果が大きく進展している山元町の調査成果をもとに地域社会の歴史を見つめ直す特集発表を実施します。しだい 1.特集 趣旨…

国連防災世界会議─震災の経験と教訓・「災害史とミュージアム」を読み解くために

…幸いです。 東日本大震災とミュージアム展(せんだいメディアテーク2F) [主催] 仙台・宮城ミュージアムアライアンス実行委員会 「仙台・宮城ミュージアムアライアンス(SMMA)では、東日本大震災におけるミュージアムの被災状況と復旧プロセスに関する調査を行ってきた。平成24年度に実施した調査をもとに、その後の追跡調査や各館による報告資料を通してみえてきた、ミュージアムの被災と、復旧・復興過程における地域社会との関係について紹介展示を行う。」(SMMAHPより) 震災で被災した石…

宮城県遺跡調査成果発表会─入の沢・熊の作・御駒堂遺跡ほか─東北古代史の発見

…碑・山元町の山から─震災三年七か月 - 縁果翁記 神社を囲む溝の年代は15世紀から江戸時代と訂正された。◎多賀城跡87次調査(多賀城跡 調査研究) 南門の再調査が過去の調査成果が訂正された。 虎箱!さんのブログより 2014年11月09日の記事一覧 - 詳細表示 - Yahoo!ブログ 宮城県考古学会-遺跡調査成果発表会 発表・資料掲載された遺跡は、まだまだたくさんあります。詳しくは『平成26年度 宮城県遺跡調査成果発表会発表要旨』(宮城県考古学会 1000円)をご覧ください…

真の「国富」と歴史文化遺産─大飯原発判決文に寄せて

…を忘れてはならない。震災の南三陸体験を踏まえて、少しく言い直してみると 「豊かで美しい風土(国土)とそこで人々が生を全うする そして、そのことを、子々孫々に伝えていけることが 【その先人の知恵と工夫の証が歴史文化遺産】 ほんとうの国民の基本的資産(国富)である」 (日本列島に生きた人々の遺伝子の奥に隠れています)福島の浜は今─小高区浦尻貝塚から - JIEN記 大震災三年─南三陸・仙台・名取をめぐって─震災考 - 縁果翁記 「入りそめて国ゆたかなるみぎりとや千代とかぎらじせん…

三陸の風土と人に感謝する

…年間、南三陸をはじめ三陸沿岸復興のお手伝いをしながら「歩き・観る・聞く」で地域の人々に親切に導かり、風土や歴史の遺産を探ることができました。まことに有難うございます。 そして、震災・津波を越えて、三陸に生きる人々の生きざまにうたれました。まさにこの方たちや祖先のかたたちが営々と歴史文化遺産を守り伝えてきたのです。 このような先人の遺産が復興まちづくりに活かされるよう祈念いたします。わたくしも微力ながら少しでも「真の復興」に役立てるよう、これからもお手伝いさせていただきます。[

大震災三年─南三陸・仙台・名取をめぐって─震災考

…) 合掌 「東日本大震災三周年南三陸町追悼式」 新井田 発掘が終わった志津川の新井田館跡(右側)を盛り土の間から望む。発掘風景 (休憩中撮影 町教委掲載許可済) 新井田館跡は発掘によって、600年前(南北朝時代)に築城され、全国的な戦乱の中で、地域のエネルギーを集めて防御をこらした、東北有数の海を抑える山城であることが分かりました。 夏の新井田館跡 休憩時間に志津川湾を望む ほっ とする海風 あそこから津波が.. ここで生きていく 今 南三陸の方たちはとても一生懸命働きます。…

「講座東北の歴史 第6巻 生と死」刊行に寄せて─南三陸からの提言

…日に発生した東日本大震災が東北の地にもたらした膨大な死者と残された人々の深い悲しみは、新たな「死者との結びつきの在り方」を問うこととなった。」(はじめに「死」より) 目次 東北の古墳と葬送……東北大学 藤沢 敦 率都婆 ―中世人の死生救済祈願― ……地底の森ミュージアム前館長 田中則和 大名の死をめぐる頭髪規制の展開 ―月代に関する町役人の願書から― ……東北大学 中川 学 クリスチャンの「祖先祭祀」……待井扶美子 東北地方の「骨葬」習俗……東北大学 鈴木岩弓 誰が戦死者を祀…